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2022年2月14日月曜日

旧暦1/14 文学史

 垂渓庵です。

 古典あるいは現代文の授業をしていて、毎年処置に困るのが文学史だ。センター試験(共通テスト)を視野に入れた場合、さほど重要ではないが、さりとて文学史的な内容を問う大学がないわけではない、という悩ましい位置にあるのが、文学史である。

 無視するわけにもいかず、さりとて あまり深入りしても入試での出題頻度を考えるとコスパが悪いのである。というわけで、古典を担当するにしろ、現代文を担当するにしろ、授業を2、3回費やして最低限の説明をするようにしている。ま、どだい2、3回程度で千数百年以上にわたる長い期間の文学史や、近代以降の膨大な作品が作られる時代の文学史をカバーしきれるわけがない。骨子だけを伝えて、受験に必要な度合いに応じて生徒に作品名や作者名を補ってもらうことにしている。

 と言っても乱暴な骨子なのだけれど、最低限のターニングポイントだけは伝えるようにしている。力業で文学史を強引にねじ伏せなければならないので、この時期なのに授業を終えると汗をかいている。普段のおれの省エネスタイルと違って熱演と言えるだろう。いや、おれの言っていることは本当か、と冷や汗を流しているのだという説もあるが。

2019年1月21日月曜日

旧暦12/16 訃報 横田順彌

垂渓庵です。

すっかりごぶさたしてしまった。というのが常態となっている。ということも何度も書いた。変わりがないわけではないが、書く時間もない、ということでさくっと省略。

さて、SF作家の森下一仁さんのブログを見て、横田順彌さんが亡くなっていたことを知る。

そうか。お亡くなりになったのか。ここんとこ調子がずっとすぐれないということを何かで読んでいたので、驚愕したというわけでもないのだけれど、ショックがなかったわけでもない。

横田さんの作品を最初に読んだのは、ユーモアSFのアンソロジーの一編、「脱線<たいむ・ましん>奇譚」だったのではなかったか。内容についてはすでに忘却の彼方だ。たぶん読んだのは中学生のころ。もはや40年近く前のこととなる。

それ以後もつかず離れずという形で横田さんの本は読んでいったはずだ。「日本SFこてん古典」(1~3)をお出しになり、押川春浪をはじめとする明治ものをいくつもお出しになるあたりまでは、読み継いでいったように思う。ウィキペディアの著作一覧を見渡す限りでは、1990年ごろまではフォローしていたようだ。それ以後は、わたしも専門の研究やアフリカンのパーカッションにのめりこんでいき、そちらに多くの時間を割くようになったのだったか。

90年代以降は横田さんの新刊を手に取ることもなくなっていった──というか、SFそのものを手に取ることもなくなっていった。海外SFで言うとサイバーパンクあたりまでか──のだけれど、「第一種失禁遭遇」だの「アレ・オランガナ姫」だの「ルーム・スカイランナー」「オオ・バッカ」「ゼン・ソロ」「アカン・ベーダ―」「スター坊主」などなどのくだらなくもステキなダジャレは今でもいくらでも諳んじられる。田中啓文さんが好きなのも確実に横田さんがいたからだと言える。

一方で古典SFの研究にも興味をひかれた。最近はそちらの方面に傾斜しておられたようだけれども、そうなる以前から主流文学から外れたところの作品の面白さを横田さんを通して知っていったように思う。「日本SFこてん古典」を単行本3冊揃いで持っているのは私のひそかな自慢だ。一時期古書価がべらぼうに高かったと記憶している。

横田さんの前にこんな研究分野はなかったし、現在でも横田さんの研究は一級の価値を持っている。たぶん。書誌的なデータをおろそかにせず、しかも面白おかしくSF前史を語る人だった。横田さんがいなければ、中山忠直の「地球を弔ふ」などはきっと知らないままだったろう。

こうやって見てくると、横田さんはおれの人格形成期に少なからぬ影響を与えているようだ。北杜夫然り。星新一然り。カート・ヴォネガット然り。みんな鬼籍に入ってしまった。

改めて横田さんの冥福を祈る。今日は久しぶりに「日本SF古典集成」でも拾い読みしてみようか。

2018年1月16日火曜日

旧暦11/30 少年陰陽師

垂渓庵です。

久々の更新だ。これ、居酒屋ならキープしたボトルがとっくに流れてるな。いかんいかん。

ここんとこ、少しだけ時間がある。でもしばらくしたら、また忙しくなるだろう。むう。

というわけで、生徒から借りたままになっている少年陰陽師というシリーズを読んでいる。借りてるのは10冊ほど。で、今は4冊目だ。借りている本の帯に「400万部突破!! 大人気シリーズ」とある。ずいぶん売れているのだと思って、Amazonで検索してみて驚いた。このシリーズ40冊以上出てるじゃないか。インド人もびっくりだ。というのは今では禁止フレーズになるのかな。そういえば、大学時代の友人の友人が、何かの時に熱く語っていたそうだ。「おれは差別するやつとインド人は嫌いや!!」……。彼のあまりの気迫に、友人は「それ差別やんけ」とは言えなかったそうだ。

閑話休題。少年陰陽師だ。主人公は安倍晴明の孫で、晴明には自分の後継者と目されている。主人公はもともとはおじいちゃん子だったが、ある件以来晴明にわだかまりを持っている。とはいえ晴明を心底嫌い抜いているかというとそうでもなさそうだ。晴明がよく言われていればうれしそうだし、悪くいわれりゃ、術で相手をびびらせる。ま、ツンデレだ。

そんな主人公の相棒が、十二神将の一人で晴明の式神でもある紅蓮だ。彼は口の悪い相棒という感じで、でも主人公を認めている。そんな紅蓮は同じ十二神将からは疎まれている。そこに道長や彰子や行成やついでに妖異などなどが絡んできて、涙あり笑いありの活劇が始まる。

主人公はそこここで「あれが晴明の孫だ」的な目で見られる。なんかハリーポッターみたいだ。

シリアスな雰囲気の息抜きには憎めない雑妖が出てくる。なんかしゃばけの家鳴みたいだ。今気づいた。家鳴って家鴨に似てるな。

晴明は年老いて衰えた今も絶大な通力を誇る。なんか剣客商売の秋山小兵衛みたいだ。

と、どこかで見たよな、この設定やプロットというようなものが見られはするが、それらの組み合わせ方が絶妙だ。主人公がかたくなすぎるのが何だかなあという感じにならなくはないが、まだ4冊目だ。たぶんゆるゆると成長するのだと思う。40冊もあるんだから。

というわけで、あらためてシリーズをそろえようかと思っている。

2016年4月25日月曜日

旧暦3/19 航空宇宙軍史

垂渓庵です。

SF作家の谷甲州さんに「航空宇宙軍史」なるシリーズがある。ガチガチのハードSFで、航空宇宙軍の確立~外惑星動乱~氾銀河文明との争いという大きな枠の中で様々な時点の話がとりあげられる。20年以上前に一応の完結を見たシリーズだ。

主にハヤカワSF文庫で刊行されていた。確かシリーズ最後の「終わりなき索敵」はハードカバーで出されたように記憶している。その後文庫化したのだったか。

宇宙空間の圧倒的な距離感や航宙艦の息詰まるような閉塞感、戦闘行動の緊張感などがたまらないシリーズだった。下手をすれば死と隣り合うハードで乾いた世界が好きな人にお勧めだ。

長らく読み返していなかったけれど、気付けばシリーズが再開している。というか、「新・航空宇宙軍史」という角書きを持った単行本が出ているじゃないか。しかも今年のSF大賞を受賞したときたもんだ。こりゃあ買うしかない。と思っていたら、なんと過去のシリーズも改稿されて電子書籍として発売されているというじゃないか。買おうかどうしようか激しく迷っているところだ。

2015年9月10日木曜日

旧暦7/28 作文講話及び文範

垂渓庵です。

『作文講話及び文範』という本がある。明治四十五年に出版された。

わたしは大正七年発行の縮刷本を持っている。この本、千ページ以上の大部の本なのだけれど、とても面白い。

2015年9月9日水曜日

旧暦7/27 蕭 登福さんのこと

垂渓庵です。

蕭 登福さんという学者がいる。台湾の人だ。天国や地獄の観念を中心として、仏教と道教の交渉史を研究している人だ。と知った風なことを書いているが、実はそんなに詳しくはない。ご本人にお目にかかったこともない。

が、学生の頃からお名前は存じ上げていて、勝手にリスペクトしている。どうしてそんなことになったのか。

ことは昨日の記事にとりあげた和歌色葉を読んでいた頃まで遡る。

2015年9月8日火曜日

旧暦7/26 和歌色葉を読んでいたころ

垂渓庵です。


わたしは学生の頃、王朝和歌を専門の研究対象としていたが、さまざまな分野に首を突っ込んでいた。というか、わたしの通っていた大学では卒業オア修了のためには、各時代に渉るさまざまな分野の単位が必要だった。
で、その中に、伊藤正義先生の授業があった。先生は学部で謡曲や歌学書を扱い、大学院では宴曲を扱っておられた。先生について思い出を記した先代のブログがあるのだけれど、うまくリンクが張れない。興味のある人は、「伊藤正義 勧君金屈巵」でググってください。トップにその記事が出てくる。

2015年9月2日水曜日

旧暦7/20 石田穣二さんすごい

垂渓庵です。

職場の行き帰りに本を読んでいる。何度も書いていると思うけれど。

このところはちょっと硬めの研究書を読んでいる。石田穣二著『源氏物語攷その他』だ。と書こうとして「攷」の字がなかなか出てこなかった。そんなに珍しい文字ではないと思うのだけれど。ワープロソフトの辞書大丈夫か。

さて、石田穣二さんは、わたしが学生のころは、角川文庫の枕草子や新潮日本古典集成の源氏物語の著者として知られていた人だ。などと書くまでもなく、中古文学研究の第一人者だった人だ。十年ほど前に亡くなっておられる。

わたしが学問のまねごとをしていたころは脂の乗った研究者だったはずだけれど、学会などでお見かけしたことはたぶん、ない。ま、研究者の名前や顔にはあまり興味がなかったので、誰かに教えてもらっても、スルーしていただけかもしれないけれど。

2015年8月28日金曜日

旧暦7/15 またもや勉強&ヒロタさん追悼

垂渓庵です。

またもや自分で教材を作るべく四苦八苦している。よっぽど暇なんだな。おれ。

というわけで、今回も「、仏教がらみの説話をせっせとワープロ入力→簡単な注を作成」という作業にいそしんでいる。

2015年8月10日月曜日

旧暦6/26 ラノベと星新一 3

垂渓庵です。

暑い。けど、明け方は少し風が吹き、気持ちいい。太陽が顔を覗かせると、すぐに暑くなるけれど。

ラノベにはミステリー風の作品もこれまたたくさんある。殺人事件だけではなく、日常の謎を追いかけるものも含めれば、ランダムにラノベを手に取れば、何回かに一回は何らかの謎を解くものを手にすることになるだろう。

それらは、主人公が高校生~20代前半で、なおかつユーモアや恋愛で味付けされたものも多い。想定される読者にとっては、やはり身近なものとなっている。と思われる。

さて、一方、1960、70年代はどうか。アガサ・クリスティやエラリー・クイーン、松本清張、横溝正史などなど、読まれたであろうミステリ作家はいくらも思い浮かべられる。どれも面白いものである。が、想定される読者はやはり一般人だろう。

当時の中高生はミステリを読むにあたっても、多かれ少なかれ背伸びをしていたんじゃないかと考えることができる。

以上のように考えてみると、現代の中高生は、無理せず身の丈に合った読書をするという意味では恵まれていると言えそうだ。が、その状況を喜んでばかりもいられないような気がする。成長期に背伸びをしたからといって、物理的に背は伸びない。けれども、精神的な背伸びは、心の成長に何がしかの影響を与えずにはおかないように思う。

また、手に入る喜びの大きさも異なるんじゃないか。もちろん、ラノベによっても、思いもかけなかった世界の姿に気付くこともできる。痛切な感情を追体験することも可能だ。その結果、結構な満足感を抱けたりもする。が、それを何らかのハードルを乗り越えた末に手に入れるという要素は、あまりない。やっぱり苦労した方が達成感や喜びは大きいと思うのである。

精神的な成長、手に入る喜びの大きさ、そこらあたりで、今の中高生とかつての中高生の読書のありようが異なってきているように思うわけである。

2015年8月9日日曜日

旧暦6/25 ラノベと星新一 2

垂渓庵です。

まだ暑い。そのせいか、ここ二、三日夕立がある。雷はありがたくないけれど、雨がさっと上がった後は少し涼しい。夕立様々である。

さて、ラノベと星新一や筒井康隆さんの話を続けよう。どちらも中高生に広く指示されている(いた)ものだ。

が、ちょっとした違いがあるように思える。ラノベはどちらかというと中高生に寄り添って書かれている。中高生が主人公の作品もものすごいく多いし。

一方の星新一や筒井康隆さんの諸作品はどうか。いわゆるジュブナイルに属するものは別として、特に中高生に寄り添っているとは思えないものが大半だ。小松左京その他の1960年代70年代にきら星の如くに並んだSF諸家の作品も同様だ。

コバルト文庫の作品は別として、当時の中高生は、大人を意識して書かれた作品を好んで読んでいたことになる。市場が細分化されていなかったということもできるだろうけれど、やはり、嗜好の違いが窺えそうだ。

一言で言うならば、背伸びをしているかしていないかということになるのではないか。もちろん、星新一の作品などは、とてもリーダビリティの高いもので、背伸びをする必要もなく読めたのではないかと思う。が、その他のSF作家の方々の作品は、必ずしもそうではない。

筒井康隆さんの実験的な作品や、小松左京のスケールの大きい長編、眉村さんの中間管理職の悲哀を感じさせるような作品群、どれも中高生には手に余るところがある。が、それらを当時の中高生は背伸びして読んだのではなかったか。

このあたりの事情は、ミステリ系の諸作品についても同じことが言えるように思う。

が、長くなるのでそのあたりはまた次回ということにしよう。

2015年8月6日木曜日

旧暦6/22 ラノベと星新一 1

垂渓庵です。

暑い。とんでもなく暑い。わたしはすでに夏休みに入っているけれど、うちの同僚の中には、まだ補習をしてますって人もいる。もちろん教室に冷房は入っているが、この暑さである。いいかげん辟易しているのではないだろうか。わたしなら脱走するかもしれない。そして他の同僚と追いかけっこを演じるのである。おっかなびっくり追いかけてくるのはエヌ氏。BGMはサンバ。

などとバカな空想にふけってしまうほど暑い。もちろん、世の中には、この暑さの中営業で走り回ったり、肉体労働で汗を流す人もいるわけで、クーラーの効いた中で授業するぐらいがなんぼのもんや、と思わなくもない。が、やっぱり暑いのはやだ。内田百閒ばりに言えば、いやなものはいやだ、なのである。

さて、そんな中、生徒に借りたラノベを読んでみる。早朝の読書の時間に生徒が持ってきて読んでいる本を見ていると、ほんとにラノベが多い。わたしが学生の頃に読書の時間があったら、みんなどんな本を読んでいただろう。わたし自身は北杜夫や内田百閒を読んだに違いない。でもみんなが読んだとは思えない。多いのはやっぱり星新一や筒井康隆あたりということになるんじゃないか。SFだな。

ラノベにもSF的要素を含む作品はたくさんある。が、星新一、筒井康隆などなどの作品とは少し違うところもあるように思う。というようなことを近いうちに考えてみたい。暑さに負けなければ。

2015年2月24日火曜日

旧暦1/6 吉川英治と呪法

垂渓庵です。

ぼやぼやしているうちに、旧暦でも年が変わってしまった。いいかげん図書館祝詞についてコメントしないといけないところだけれど、今回はちょっとパスして、少し軽めのネタをお届けしよう。

ちょっと前にわたしのkindleが代替わりしたと書いた。で、その代替わりしたkindleで、吉川英治の「神州天馬侠」を読んでいる。表現などを見ていると、「三国志演義」などを下敷きにしている印象を受ける。吉川版「三国志」の序文によると、少年期に邦訳「三国志」の愛読者だったらしいから、あたりまえなのかもしれないけれど。

2015年1月6日火曜日

旧暦11/16 古文を訳させるには5

垂渓庵です。

前回はわたしはまぬけだという話だった。今回は、わたしはこれからもまぬけだろうという話だ。

生徒に訳させるために、ネットでマイナーどころの作品を選んでしまったために、本文を整えるためにえらいこと苦労したところまで書いた。

それだけでは終わらないのである。生徒に話をする以上、自分が内容についてきちんと理解できていないといけない。本文の解釈ももちろんだけれど、出て来る人名や事項などについてもきちんと押さえる。必要がある。これがまた面倒だった。

2014年11月19日水曜日

旧暦閏9/27 古文を訳させるには 4

垂渓庵です。

前回は、わたしがまぬけだったかもしれないというところまで書いたと思う。今回はやっぱりわたしはまぬけだという話だ。

2014年11月18日火曜日

旧暦閏9/26 古文を訳させるには 3

垂渓庵です。

前回は、教材を作るために、マイナーどころの作品を探すのにけっこう苦労した話だった。実家の専門書や資料類を突っ込んである棚をものすごく久しぶりにひっくりがえしたし。

で、いよいよ読ませる作品が決まって、大切なことに気がついた。

2014年11月17日月曜日

旧暦閏9/25 古文を訳させるには 2

垂渓庵です。

古文を訳させるには、訳や注などがネット上に存在しないような教材を読ませればいいんだ、そう気づいたところまで書いた。単純と言えば単純な話だ。

で、その単純なアイデアを実行しようとして、えらい目にあった。

2014年11月16日日曜日

旧暦閏9/24 古文を訳させるには 1

垂渓庵です。

この前バスの中であったという会話。

「古文の予習をしないといけない!」
「そんなのネットで探したら見つかるでしょ?」
「それが、どこにもないのよ」

今はネット社会だ。うまく使えば、多大の恩恵を与えてくれる。が、インターネット依存症なることばがあるごとく、使いようによっては、大きな弊害がある。

ところで、上の会話で予習をしなきゃと言っているのは、たぶんわたしが古文を教えているクラスの生徒だ。どうしてそんなことが分かるのか。

2014年9月24日水曜日

旧暦9/1 祝詞いろいろ

垂渓庵です。

祝詞(のりと)というものがある。七五三の折などに、神社で神主さんがむにゃむにゃと唱えるあれだ。他にも地鎮祭や神前の結婚式などでも唱えられることがある。

あの祝詞にはある程度定型がある。子供の幸せを祈ったり、工事の無事や結婚の祝福などを祈願したりするために、パターンに則って神様に語りかけるのだ。

手紙文が、拝啓で始まって、時候の挨拶、本題、敬具で止め、場合によっては追伸に続くのと似たようなものだ。

本の部屋の整理をしていて、そのパターン集が出てきた。書名は「神道大祓全集と解説」。著者は「阪井正卿」。表紙には、「興風書院蔵版」と印刷されているが、奥付を見ると、発行所は「仏教新聞社」とある。業界紙だろうか。昭和十四年に出版されたものものだ。

だいぶ前に古本屋さんで買ったものだが、すっかり忘れていた。

2014年9月4日木曜日

旧暦8/10 黒岩涙香のかぎかっこ

垂渓庵です。

黒岩涙香というジャーナリスト、翻訳家がいた。有名な人なので当然ご存じの方も多いことだろう。

先日、その涙香の「血の文字」という翻案小説を読んだ。目科(めしな)という探偵が活躍するものだ。目科の奥さんがワトソン役の語り手と推理を闘わせるというのが、ちょっと変わった趣向だったけれど、今はそれが本題ではない。

この小説、かぎかっこの処理がとても変わっているのだ。kindleで読んでいるので、元々の本の体裁と全く一緒なのか分からないところもあるのだけれど、だいたいこんな感じになっている。