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2022年2月2日水曜日

旧暦2/2 神仏習合

 垂渓庵です。

 神仏習合という現象がある。簡単にいうと、日本のやおよろずの神様たちを仏教の仏さんや菩薩さんと結びつけて理解しようとする営為のことだ。たとえば、伊勢に鎮座まします「天照大神(あまてらすおおみかみ)」を「大日如来(だいにちにょらい)」と同一視するような理解の仕方を言う。本地が「大日如来」で垂迹が「天照大神」だと言われたりもする。いわゆる本地垂迹思想というやつである。

 ことほどさように日本では仏教と神道とが切っても切れない間柄だった。それは下々の者の意識にまで及んでいたと言っていいだろう。七福神の中には「えびすさん」のようにもともと日本の神様である方もいれば、「弁財天」や「毘沙門天」のように仏教系の神様(?)もいるし、「寿老人」や「福禄寿」のように道教由来らしい神様もいる。「布袋さん」は弥勒菩薩の化身と言われている。七福神、えらいことグローバルじゃないか。

 良くも悪くもそういう習合状態だった神様と仏様を強引に分離しようとしたのが明治時代の廃仏毀釈運動だ。文字通り「仏さんを廃し、お釈迦さまを毀(こわ)」そうとした訳だ。習合状態の神さまと仏さまは、おそらくそのごっちゃになった状態でご先祖様に受け入れられ、血肉となっていたはずなのに。 明治時代がいかにそれ以前と以後とを断絶させたかは、この例を見ても分かる。近代化には必要なことだったのかも知れないけれど。しかし、長い目で見た場合、グローバリゼーションに反していやしないのか?

2018年9月4日火曜日

旧暦7/25 中休み

垂渓庵です。

これまでにないほど長く更新を怠ってしまった。余裕がなかったわけではないが、書く気にならなかったと言えばいいか。

今日も台風で臨時休校にならなければ書かなかっただろうということは、ほぼ確実に言える。

さて、蔵書の売り払い計画は着々と進んでいて、家の本棚が2つというところまで減量できた。その分、実家と職場に持って行ったものも結構あるから、蔵書が本棚二つ分になったというわけではない。職員室の机まわりなどひどいことになっている。あれ、何とかしないといけないな。

本棚の減量が進む一方で息子が本を買いだしていて、家にある本の冊数自体は微増といったところだ。少年探偵団のようなものを読んでいるようだ。以前はもっぱら図書館を利用していたけれど、やはり気に入った本は手元に置いておきたいらしい。お小遣いを貯めて買っている。近くに本屋さんがないので、時々電車に乗って中規模書店のある街に出かける。どんな田舎だと思われるかもしらないけれど、れっきとした大都市のベッドタウンだ。以前は近くに小さな本屋さんが2軒あったけれど潰れてしまった。今は焼肉屋さんと薬局になっている。

今日は息子も臨時休校になったことだし、朝のうちに本屋さんに出かけてもいいかもしれない。などと言っている場合ではない。大阪はあまり台風の被害が出ない所だけれど、今回の台風は油断できないし。息子とベランダ周りを片付けるとするかな。

2016年2月24日水曜日

旧暦1/17 法華経の経文。

垂渓庵です。

『仏教漢文の読み方』という本を読んでいる。必要に迫られているわけではない。趣味で、としか言いようがない。面白いかというと、面白い。わたしはためにする読書があまり好きではない。同様に、面白くないものを無理矢理読むというのもやはり好まない。時には我慢して読むこともないではないけれど、そこはそれ、何となく面白くなりそうな予感がしたり、無理くり小難しい本を読んでいる自分に酔うこともあったりで、それなりに読んでいく動機付けというものがある。

ということはここでの本筋ではない。著者の金岡照光さんが挙げている話の中に、漢文のお経をそらんじている人も、内容については和讃など経由の知識が主で、経典の漢文をきちんと読んで理解している人は案外少ないよね、ということが書かれていた。もちろん、こんな砕けた書き方をしておられるわけではない。この本はもっときちんとした本です。

そのくだりを読んでいて思い出した。たしか中学か高校の頃、うちにあった法華経を訓読した形のお経にいったい何が書かれているのか気になった。何らかの真理でも書かれているのかもしれないと思ったんじゃなかったか。で、母に質問してみたところが、あまりはかばかしい答えが返ってこない。なんといい加減なと思わなくもなかったが、答えが返ってこないのだから仕様がない。

で、何をしたかというと、岩波文庫の法華経を買って読んだのだ。サンスクリットかパーリ語からの訳と漢訳とが対照されていたのではなかったか。口語訳は厳密な意味での漢訳の翻訳ではなかったので、少し丁寧に対照させて読むとずれが目についたけれど、そんなことは気にせず読んだ。そして、法華経って妙な本だと思った。だって、このお経はすごいぞというようなことが何回も書かれていたのだから。ああ、だから妙法蓮華経なのかと得心した、というのは嘘で、なんでこんな風に書かれているんだろうとは思ったものの、それっきりとなってしまったのだった。

というようなどうでもいい記憶が金岡さんの本を読んでいて呼び起こされた。他のお経には何が書かれているのか気にならなくもないけれど、もうあの頃のように無理くり長いものを読み通す気力はないだろうなあ。

2014年9月22日月曜日

旧暦8/29 むすんでひらいて壊れました

垂渓庵です。

今日の内容は、世の中的には周知の事柄なのかも知れない。が、わたしは、ちょっと「へえ」と思ったので書いてみる。

『むすんでひらいて』という歌がある。誰もが知っている歌とメロディーだと思う。

あの歌には、別の歌詞があるのだと大学時代の先輩のニシさんから聞いたことがある。

ものすごく曖昧なのだけれど、「むすんでひらいて」の部分が、「見渡せば春柳(はるやなぎ)」となっていたように思う。

なぜそんなことになるのか、忘れてしまった。

今日はそれが本題ではない。今日の本題は…

2014年8月6日水曜日

旧暦7/11 定本パンセあるいは裏は真っ白

垂渓庵です。

以前に書いた話とかぶるが、前々回のお値段の考察にとりあげた松浪信三郎訳の『定本パンセ』は、見開き2ページの空白ページがとびとびに現れて、計8ページが真っ白だ。盛大な落丁、ではないな。乱丁? 違う気がする。なんと呼んでいいのかよく分からない。

分からないが、そんなことになる仕組みは、なんとなく想像がつく。

うちの職場の機関誌(?)は、外部の印刷屋さんに印刷をお願いしているが、16ページで1単位となっている。大きな一枚の紙に何ページ分かをまとめて両面印刷し、裁断、製本するという流れを考えると、そうなるのだとか。

これが通り相場だとすると、講談社文庫も同じ方式で造られているものと思われる。で、『定本パンセ』だけれど、空白ページが現れるのは、82-83、86-87、90-91、94-95の各ページだ。ノンブルも含めて何も印刷されてないけれど、位置から言うとそうなる。

さっきの16ページがひとまとまりというお約束を適用すると、81ページから96ページまでがひとまとまりだと推測される。空白ページは、両面印刷すべきそのひとまとまりの片面を印刷し忘れたために生まれたものと推測される。

『定本パンセ』は昭和46年の発刊で、まだ活字を組んで印刷していたものと思しい。今では、原稿も失われていることだろう。印刷されなかったページの紙型(しけい)もないかもしれない。

かなりの力作でありながら、不思議と講談社学術文庫に収められることがないのは、そこらあたりが原因なんじゃないかと思ってみたりもする。

河出書房から出ていた『世界の大思想』シリーズに松浪信三郎訳のパンセが入っているが、底本が違う。空白ページは、もはや完全には復元できないんじゃないだろうか。

2013年9月14日土曜日

旧暦8/10 連想 ボイジャー パイオニア

垂渓庵です。

小学校から中学にかけて星が好きでよく望遠鏡を覗いていた。ちょうどそのころだった。ボイジャーが打ち上げられたのは。

先日、ボイジャー1号が太陽系を離れて恒星間宇宙に出たというニュースに接した。望遠鏡を覗かなくなって久しいけれど、ちょっと感慨が湧かなくもない。当時の天文ガイドなどには、打ち上げ時点での予定というか、行程表というか、そんなのが載っていたような気もする。それとのずれがあるのかないのか、ちょっと興味がある。

2012年10月1日月曜日

旧暦8/16 法の句

垂渓庵です。

先週の少林寺拳法の話の続きだ。と言っても、武張った話ではない。ちょっと文学的というか、宗教的というか、そんな感じの内容だ。

2012年8月15日水曜日

旧暦6/28 六十四はとても大きい

垂渓庵です。

仏教の世界観によれば、この宇宙は生成と消滅を繰り返している。そのサイクルの説明の中で、前回、前々回と紹介した「劫」という時間単位が登場する。

2012年8月13日月曜日

旧暦6/26 どんだけ──磐石編

垂渓庵です。

先週とりあげた「劫」には、「芥子劫」の他に、もう一つ有名な比喩的説明がある。「磐石劫」がそれだ。こちらにはでかい石と天女が登場する。

2012年8月9日木曜日

旧暦6/22 どんだけ──芥子編

垂渓庵です。

おとついは、「あきつのとなめ」を考えるついでに、仏教の空間概念の一端を紹介した。今日は、「劫(こう)」という時間の単位を巡って、時間概念の一端を紹介してみよう。これがまた途方もないものなのである。ところで、おとついの記事には、上底、下底の表記と方位とに誤りがあったので訂正しておいた。すみませぬすみませぬ。

2012年8月7日火曜日

旧暦6/20 台形──贍部州のこと

垂渓庵です。

前回の「あきつのとなめ」からえらいこと間が空いてしまった。今回はその続きです。遅れてすまぬすまぬ。

仏教は壮大な時空感覚を持っている。

2012年4月19日木曜日

旧暦3/29 仏教語

垂渓庵です。

現在わたし達が話す日本語には、とてもたくさんの漢語が含まれている。西洋の進んだ文明を取り入れるために、江戸時代末から明治時代にかけて作られた和製漢語も含めて、その数は膨大なものになる。日常の基本的な語彙は、さすがにもともとの日本語──「やまとことば」あるいは「和語」──が大きな割合を占めているけれど、それでもその全てではない。

「両親」と「ふたおや」、「兄弟」と「あにおとうと」のように、どちらかというと漢語で表す方が自然な概念も多い。また、「愛情」、「家族」のように、対応する「やまとことば」を思い浮かべにくい例も数多くある。漢語を抜きにしては日常生活は成立しないと言っていいだろう。

そんな漢語の中には、仏教用語として日本語に入ってきて、そのまま日常語として用いられるようになったものがいくつもある。「彼岸」や「お盆」、「供養」、「地獄」などはすぐに思いつく。「金輪際」や「有頂天」なども、ある程度仏教に関する知識を持っていれば、仏教用語だと分かるだろう。しかし、次のような場合はどうか。

2012年4月3日火曜日

旧暦3/13 再掲 プロスロギオン

垂渓庵です。

これも2008年8月に公開した。こういうものを読むのは実はあまり嫌いではない。もっとも、日常的に手に取るわけではないけれど。「ユニークな倫理の先生」についての記事は今回は省略したが、ほんとにユニークな人だった。哲学に興味を持つようになったのは、確実にあの人の影響だ。

以下本文

垂渓庵です。

今日は旧暦の七夕です。が、今回はそれに相応しい風流な話題では全然ありません。どちらかというと、暑さを亢進させるような話です。耽読翫市はあなたを忍耐力の限界にいざないます。

2012年3月19日月曜日

旧暦2/27 再掲 科学的ということ

垂渓庵です。

2007年9月に公開したもの。

昨日も書いたように大学の一般教養で論理学をとった。ナカザエ先生の語りは軽妙でなおかつ明快だった。論理学というと味も素っ気も潤いもなさそうな印象を与えるが、面白い授業だった。その後、独学で様相論理に首を突っ込むほどに影響を受けた。もちろん自爆したけれど。

以下本文

わたしは大学在学時から論理学に興味を持つようになりました。大学一回生の時、一般教養の科目として開講されていた「論理学」の授業に出席したことがきっかけです。大学時代にはそれ以後も折に触れて論理学の入門書めいたものを読んでいました。

と言っても、アリストテレスのような古典的な本を読むことはありませんでした。読んだのは主に記号論理学関係の本です。命題論理や述語論理と言われるものですね。今となっては記号の意味もはっきりとは覚えていませんが。

今回はその論理学の話です、と言いたいところですが、とても無理です。ここではそんな興味からはじまっていくつかの著作を読んだことのある哲学者、沢田允茂のことばを紹介したいと思うのです。

2012年3月5日月曜日

旧暦2/13 再掲震災臨時便 祈り

2011.3.21初出

垂渓庵です。

イギリスに、ポール・ジョンソンという歴史家がいる。もともとは、新聞雑誌の記者や編集に携わっていた人らしい。「キリスト教の二〇〇〇年 上・下」や 「ユダヤ人の歴史 上・下」、「近代の誕生 1~3」、「現代史 上・下」、「アメリカ人の歴史 Ⅰ~Ⅲ」、「インテレクチュアルズ」、「ルネサンスを生 きた人々」、「ナポレオン」、「ピカソなんてぷっとばせ」などなど、とにかく幅広い話題に通じていて、興味深いものを書く人だ。

分冊になっているものは、どれも一冊単行本で500ページになるんじゃないかな。「現代史」なんぞは、一冊あたり上下二段組で一冊600ページを超える。どれも読めばおなかいっぱいになること請け合いだ。