闇サイト殺人の加害者の一人が無期懲役になった。これで、同事件の犯人は、一人が死刑、二人が無期懲役となった。
わたしはこの判決に激しく疑問を感じている。殺害方法を思い起こすと、被害者の遺族の無念はいかばかりかと思われる。
いつもならリンクを張るだけだが、ウィキペディアから殺害状況を転載してみよう。無期懲役で本当にいいのか、これを見て判断してほしいと思うのである。
8月24日午後10時頃、名古屋市千種区で帰宅途中の路上を歩く女性を車に連れ込んで、手錠をかけて拉致。約6万円とキャッシュカードを奪う。さらに包丁で被害者を脅して、キャッシュカードの暗証番号を聞き出し、8月25日午前0時頃、愛西市佐屋町の駐車場で被害者を殺害する。被害者の女性は「殺さないで下さい」「話を聞いて」と何度も命ごいをしたが聞き入れられず、容疑者は犯行が露見するのを恐れるだけの理由から、何の落ち度もなくかつ怨恨を受けたわけでもない被害者の顔に粘着テープを巻きつけた上にポリ袋をかぶせ、ハンマーで頭を数十回めった打ちにし、遺体を岐阜県瑞浪市の山中に埋めて逃走した。女性の死因は窒息死とみられている。(以上、ウィキペディアから引用)
この国には本当の意味の終身刑は存在しない。場合によれば今回の犯人たちも仮釈放されるということが考えられる。もちろん、仮釈放は機械的に行われるのではなく、犯した罪の内容によって審査が行われるようだが、殺された人の人数が量刑に関わってくるという国柄だ。今回の犯人たちは、人数で言うなら一人しか殺していない。しかも、高裁の判決で更生の可能性が言及されていたそうだから、二人が仮釈放される可能性は高いと思われる。
もちろん、加害者の更生→社会復帰という道筋も大切だ。が、この国では人命は地球よりも重いのではなかったか。その人命を奪った者には、それ相応の責任の取り方があってしかるべきなのではないか。
カレル・チャペックの兄のヨゼフ・チャペックは、「死刑について」というエッセーで、「(殺人を犯した者の)責任は、武器を持たぬ無辜の人を殺す男の場合、あらゆる疑いを超越して、非常に重く大きいものである。その男がいかに悲惨であり、精神的に欠陥があり、そして戦争のために狂暴になっていたとしても、その責任は大きく、かつ厳しいものであり、またそうでなければならない」と述べ、結局、殺人者の道徳的バランス=人間性の回復という見地から、死刑に賛成する。
要は、人の命を奪うという重大な行為を行う者は、道徳的要請として、当然それとバランスのとれる何かを──つまり自分の命だ──差し出さねばならないということだ。それは、目には目をという復讐法的な考え方とは少し違うような気がする。ヨゼフは、死刑という制度が不完全なものであることを承知した上で、それでもやはり社会的要請としてその存在を認める。
それを仮に社会正義と呼ぶなら、社会があえて死刑という形で、人を殺した者の命を奪うことによって、その正義は実現されることになる。
社会がそのような形で殺人という行為にあくまでも異議を唱えてこそ、あえなく殺された人たちの無念がたとえ幾分かなりとも晴らされ、辛うじて遺族の方たちが社会からの疎外感を感じなくてすむのではないか。死刑廃止を云々する論者はその点をどう考えるのだろうか。わたしには、死刑廃止論者の意見はきれいごとのまやかしに思える。
わたしの身近に殺人事件の被害者はいない。けれども、もしも自分の肉親がこんな形で殺されて、犯人が死刑を免れたとしたら、わたしならきっと社会を呪うことだろう。いや、死刑は行うべきではない、人道的な見地に立つべきだ、と自分の身に痛みを伴わない者が言うのはたやすい。が、そのことばは限りなく薄っぺらだ。
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