2015年10月8日木曜日

旧暦8/26 落ち着く

垂渓庵です。

最近、ネットで見るものが極めて限られてきている。以前はもうちょっといろいろと見ていたように思う。

ニュースの閲覧にはgoogleニュースを使用しているので、気になるニュースなどがあれば、そこに表示されるさまざまなニュースサイトを利用することになる。巡回している──今でもこのことばは使われているのか?──サイト経由でさまざまなサイトを閲覧することももちろんある。

授業関連で調べ物をする際にももちろん使っている。

2015年9月30日水曜日

旧暦8/18 不都合

垂渓庵です。

前にも書いたと思うけれど、本をかなり整理して本棚二つ分減らした。が、みっちみちに本を詰め込んだ本棚がまだ三つ残っている。みっちみちの状態を解消すれば、空になった本棚がすぐにいっぱいになると思う。わたしは本当に古本屋に本棚二つ分の本を売り払ったのだろうか。前の一文にはやたらに「本」という字が多いな。ええと、ともかく、なんか本が減った気がしない…。

しないのに、困ったことが起こっている。それは…。

2015年9月29日火曜日

旧暦8/17 ミステリー

垂渓庵です。

生徒に借りたミステリーを読んでいる。

筋立て、犯人を追う刑事の人物造形、それぞれにとても面白いものだ。なるほど、面白さに自信を持って人に勧められる本だと言える。

が、女子高生が教師に勧めるには、ちょっと問題がなくもない。

2015年9月27日日曜日

旧暦8/15 ご当地アイドル

垂渓庵。

生徒はいろんなものにはまる。いや、生徒に限らないけれど。ゲームやネットは一般的だろう。ゲームにはいろんなジャンルがあるようだ。艦コレとか艦コレとか艦コレとか。刀剣なんとかとか刀剣なんとかとか刀剣なんとかとか。なぜ艦船や刀が女の子や男の子になるのだろう。分からない。ネット関連でも、ラインとかツイキャスとか、わたしにはよく分からないものがずいぶんある。

中には落語や伝統芸能にはまる者もいるが、少数派ではないかという気がしないでもない。いや、確実に少数派だ。

そんな風にはまる対象がいろいろある中で、ご当地アイドルというやつにはまる生徒もいる。わたしはそういうジャンルがあるとは全然知らなかったのだけれど、検索をかけてみると、日本全国にすごい数のご当地アイドルたちがいる。

2015年9月26日土曜日

旧暦8/14 変化

垂渓庵です。

最近、駅から職場まで歩いていると先日書いたと思う。

片道三十分あまり、往復七十分足らずの道のりだけれど、続けているとそれなりに変化が生じる。胴回りはあまり変わらない。歩くだけで痩せようと思えば、よっぽど長時間歩かないとむりだろうな。

しかし、確実に歩いていても疲れなくなってきている。職場までの間に十分ほど登りの区間がある。最初はこの登りにかかると、体に負荷がかかるのが分かる感じだった。要はちょっとしんどくなっていたのである。が、今では自分の感覚としては、そこまでの平坦な部分と変化なく登っている感じだ。体が慣れてきたのだと思う。

また、暗くなってから帰ることもたまにあるのだけれど、街頭のない箇所でも歩くのに困らなくなった。夜目が利くとまではいかないけれど。たぶんこれも道に慣れてきたことで体がどう歩くかを覚えてきているんじゃないかと思う。そんなこんなで、雨が降っていなければ歩く、というのが習慣化してきつつある。

なんか、風邪をひきかけても持ちこたえたりしているし、体調にもいいような気がしてきた。これは、山行が終わってからも続けようかと思う今日この頃である。もちろん、同僚にはすすめない。一緒に歩いたりした日にゃ、何くれとなくしゃべらないといけない。ウオークマンで音楽を大音量にして聴きながら歩くのがいいのである。何回か車にはねられかけたけど。

2015年9月25日金曜日

旧暦8/13 たまっている

垂渓庵です。

生徒が本を貸してくれる。貸してくれるままに借りていると、ちょっとやそっとでは読み切れない量になってきた。とりあえず読んでいかないといけない。がんばろう。

これが近況か。どうも非生産的というか、耽読も翫市もしていない気がしないではないが、やむをえない。

というわけで、まずはすぐにでも返さないといけないミステリー1冊、ラノベ4冊を読み上げなければ。

とはいうものの、雑務も溜まっている。こうなりゃ運動会の当日、仕事が入っている以外の時間は図書館にでも籠もろうか。

と書いて思い出した。図書館で調べ物をしないといけないのだった。


2015年9月17日木曜日

旧暦8/5 変なの

垂渓庵です。

国会内外がきなくさいことになっている。

多くの反対の声が上がっている中、安保法案が強行採決されようとしている。

賛否については今は詳しくは触れない。結論だけ書いておく。わたしは法案には反対だ。

それにしても、可笑しいのは、理事会室前に陣取った女性議員たちの「セクハラだ」抗議に思うように野党議員を排除できない与党の方々だ。

2015年9月11日金曜日

旧暦7/29 忘れてしまったと絶景スポット

垂渓庵です。

えっと、『作文講話及び文範』を持って帰るのを忘れてしまいました。というわけで、今日は触れることができない。

最近、わたしは最寄り駅から職場まで歩くことにしている。よんどころない事情があって、10月末に山道をかなり歩く必要があるのである。

山登りをしていた頃ならどうということはない距離&難易度なのだけれど、今の不摂生が積もりに積もった体には、まことにきつい。

というわけで、職場の最寄り駅の手前で電車を降りて、職場まで片道30数分。往復で70分近く歩くことにした。

2015年9月10日木曜日

旧暦7/28 作文講話及び文範

垂渓庵です。

『作文講話及び文範』という本がある。明治四十五年に出版された。

わたしは大正七年発行の縮刷本を持っている。この本、千ページ以上の大部の本なのだけれど、とても面白い。

2015年9月9日水曜日

旧暦7/27 蕭 登福さんのこと

垂渓庵です。

蕭 登福さんという学者がいる。台湾の人だ。天国や地獄の観念を中心として、仏教と道教の交渉史を研究している人だ。と知った風なことを書いているが、実はそんなに詳しくはない。ご本人にお目にかかったこともない。

が、学生の頃からお名前は存じ上げていて、勝手にリスペクトしている。どうしてそんなことになったのか。

ことは昨日の記事にとりあげた和歌色葉を読んでいた頃まで遡る。

2015年9月8日火曜日

旧暦7/26 和歌色葉を読んでいたころ

垂渓庵です。


わたしは学生の頃、王朝和歌を専門の研究対象としていたが、さまざまな分野に首を突っ込んでいた。というか、わたしの通っていた大学では卒業オア修了のためには、各時代に渉るさまざまな分野の単位が必要だった。
で、その中に、伊藤正義先生の授業があった。先生は学部で謡曲や歌学書を扱い、大学院では宴曲を扱っておられた。先生について思い出を記した先代のブログがあるのだけれど、うまくリンクが張れない。興味のある人は、「伊藤正義 勧君金屈巵」でググってください。トップにその記事が出てくる。

2015年9月5日土曜日

旧暦7/23 続かなかった! 歩く!

垂渓庵です。

残念ながら、連続更新記録が途絶えてしまった。まだ十回にも遠く及ばないところだったのだけれど。

このところ朝夕が涼しくなっている。うちのマンションの横にある雑木林でもうるさいほど鳴いていた蝉が気づくとほとんどいなくなっている。今朝は早朝にミンミンゼミが一匹鳴いているぐらいだった。

そんな中、サルスベリは相変わらずきれいだ。さすが百日紅と言うだけのことはある。

さて、季節の移りゆきについての感慨はそれはそれとして、11月にいつもお世話になっているカウンセラーの親玉みたいな方をハイキングというか、軽い山歩きというかにお連れすることになっている。

2015年9月3日木曜日

旧暦7/21 続いてる!

垂渓庵です。

珍しくブログの更新が続いている。今年に入ってから、ものすごくたまの更新になっていたから、ある意味快挙だ。毎日更新を続けておられる方からすれば笑止千万なことなのだろうけれど。

石田穣二さんの本もそうなのだけれど、生徒から借りた本も順調に読んでいけている。授業教材の準備も少しずつだけれど進められている。本の整理も着々と進んでいる。

2015年9月2日水曜日

旧暦7/20 石田穣二さんすごい

垂渓庵です。

職場の行き帰りに本を読んでいる。何度も書いていると思うけれど。

このところはちょっと硬めの研究書を読んでいる。石田穣二著『源氏物語攷その他』だ。と書こうとして「攷」の字がなかなか出てこなかった。そんなに珍しい文字ではないと思うのだけれど。ワープロソフトの辞書大丈夫か。

さて、石田穣二さんは、わたしが学生のころは、角川文庫の枕草子や新潮日本古典集成の源氏物語の著者として知られていた人だ。などと書くまでもなく、中古文学研究の第一人者だった人だ。十年ほど前に亡くなっておられる。

わたしが学問のまねごとをしていたころは脂の乗った研究者だったはずだけれど、学会などでお見かけしたことはたぶん、ない。ま、研究者の名前や顔にはあまり興味がなかったので、誰かに教えてもらっても、スルーしていただけかもしれないけれど。

2015年9月1日火曜日

旧暦7/19 はじまった! と蔵書整理

垂渓庵です。

いよいよ新学期が始まった。と言ってもすでに短縮授業が始まっているので、あまり実感はない。

実感はないが、いよいよ明日から七時間授業だ。なんか今、じんわりといやな感じに襲われた。そうか、ひるからさっさと帰るというようなこともやれなくなるのだな。むう。

さて、新学期を迎えるにあたってというわけでもないが、またもや蔵書の整理をしている。もっと身軽に、というわけだ。

2015年8月31日月曜日

旧暦7/18 夏休み終了に思うこと

垂渓庵です。

いよいよ本格的に夏休みが終わる。ま、すでに短縮授業が始まっているのだけれど、いちおう明日始業式があり、実力テストが終わったら、平常どおりの授業が始まる。

最近は公立の小中学校でも夏休みが短くなってきている。授業時間の確保、授業の質の向上など、それなりの理由はあるのだろう。

2015年8月30日日曜日

旧暦7/17 女子高生とエヴァ

垂渓庵です。

20年前、テレビ版エヴァンゲリオンがはじめて放映された。阪神淡路大震災のあった年だ。

震災後、わたしはテレビを見ていなかった。うちのテレビに電気が通じたのは、以下に書く出来事のあった時と、2001年に9.11テロが起こった時のことである。実に長い間沈黙し続けたことになる。テロの時はラジオでニュースは聞いていたのだが、さすがにこの目で状況を確認したくなったのだ。

という思い出話はさておき、結局わたしはエヴァンゲリオンの本放送を全く見なかったし、それがけっこう支持者を集めているらしいこともあまり認識していなかった。

2015年8月28日金曜日

旧暦7/15 またもや勉強&ヒロタさん追悼

垂渓庵です。

またもや自分で教材を作るべく四苦八苦している。よっぽど暇なんだな。おれ。

というわけで、今回も「、仏教がらみの説話をせっせとワープロ入力→簡単な注を作成」という作業にいそしんでいる。

2015年8月18日火曜日

旧暦7/5 少女漫画と少年漫画

垂渓庵です。

前にも書いたかも知れないが、最近少女漫画を読んでいる。電子書籍というのはとても便利な媒体で、コミック類の試し読みも可能だ。数ページというのではない。まるまる一冊分ということもざらにある。もちろん、発刊されているタイトル全てではないだろうけれど、あたりをつけるのに便利だ。

期間限定で無料になっているものも多いが、時には一巻目が無料になっていることもある。場合によっては、三巻目ぐらいまで無料のことも。

そんなこんなで、この三月あたりから、延べでコミック500冊ぐらいは目を通しただろうか。そんなに暇なのか、おれ。

ところで、この文章の第二段落の一文目と二文目が実はつながっていない。男のわたしが少女漫画を読むことと、電子書籍が便利だということの間には、論理的な必然性がないからだ。少年漫画だっていいじゃないか、青年コミックはどうなのだ、いっそレディースコミックはどうか、という疑問が出て来るでしょう?

少年漫画や青年コミックが悪いわけではない。6月のエントリーにもkindleで読んだお気に入りの青年コミックをあげてある。

が、登場人物の心理を微細に描く点においては、少女漫画が一番なのではないかと思う。相対的にですよ。何でもかんでも少女漫画がよいというわけではない。

作品の中で中心になる人物を考えてみよう。少女漫画の場合、女の子を中心とする話がもちろん多いわけだけれど、男の子が中心となるものもけっこうある。たとえば『俺物語』あるいは『アポロンの坂』。どちらにしても、少女漫画の一番大きな主題は恋愛ということになるだろう。時には百合やBLものなどの特殊な恋愛も含まれる。

一方の少年漫画の場合はどうかというと、やはり男の子が主人公となることが圧倒的に多いんじゃないかと思う。もちろん女の子が主人公になることもある。やや青年・成人向けにシフトするかもしれないが、山本貴嗣さんの作品などの場合がそうだろう。が、概して言うと少年漫画は、男の子が中心の友情、恋愛、成長物語という面が強いように思う。

さて、人間の微妙な心理を深いところまで描くことが多いのはどちらの場合かを考えてみよう。日本の優れた古典の一つが『源氏物語』であることに異論はないだろう。そこにはさまざまな恋愛のありようが描かれている。そして、紫式部はそこで女性の幸せとは何かについて繰り返し繰り返し問いかけている。ということは、当時の男についても光源氏やその他の男を通して考察していると言っていいだろう。人間の複雑なありようがとても掘り下げられているのだ。

恋愛というものは、人に喜びとともに苦悩や悲しみを感じさせる面があり、複雑性を持った自己や他者について突き詰めて考える契機となりうる体験であると言える。その恋愛をもっぱらとりあげる少女漫画が、複雑な人間存在について深いレベルで表現することを達成する可能性は、恋愛が作品の一要素にとどまるところの多い少年漫画よりも高いのではないか。

少なくとも、作品の中心として焦点を当てられる人物が男でも女でも自在に設定できる少女漫画の方が、より自由で柔軟な形で人間をとらえていると言えるのではないかと思う。もちろん、少女漫画特有のステレオタイプ的なとらえ方にとどまっている場合も多いけれど。


2015年8月15日土曜日

旧暦7/2 もうすぐ七夕

垂渓庵です。

最近早朝に歩いている。

11月に軽い山行の予定があり、そのためのリハビリをかねて健康の増進に役立てようというものである。

コースは特に決めておらず。歩き出してから考えている。できるだけアップダウンがあるようにしている。

日が出てからでは暑いので、五時台に歩き出し、六時台には帰宅するようにしている。

さすがにその時間だと、それなりに涼しい。

いつまで続けられるか分からないけれど、というか仕事が始まると無理っぽいけれど、何とか続けようと思っている。

息子が一緒に歩きたいと言っているが、起床時間が災いしてまだ一緒に歩けてはいない。さて、休み中に一度ぐらいはいっしょに歩けるかな。

あ、表題と全然関係のない記事になってしまった。しようがないので一句。

 八月の七夕早朝涼ありか

2015年8月10日月曜日

旧暦6/26 ラノベと星新一 3

垂渓庵です。

暑い。けど、明け方は少し風が吹き、気持ちいい。太陽が顔を覗かせると、すぐに暑くなるけれど。

ラノベにはミステリー風の作品もこれまたたくさんある。殺人事件だけではなく、日常の謎を追いかけるものも含めれば、ランダムにラノベを手に取れば、何回かに一回は何らかの謎を解くものを手にすることになるだろう。

それらは、主人公が高校生~20代前半で、なおかつユーモアや恋愛で味付けされたものも多い。想定される読者にとっては、やはり身近なものとなっている。と思われる。

さて、一方、1960、70年代はどうか。アガサ・クリスティやエラリー・クイーン、松本清張、横溝正史などなど、読まれたであろうミステリ作家はいくらも思い浮かべられる。どれも面白いものである。が、想定される読者はやはり一般人だろう。

当時の中高生はミステリを読むにあたっても、多かれ少なかれ背伸びをしていたんじゃないかと考えることができる。

以上のように考えてみると、現代の中高生は、無理せず身の丈に合った読書をするという意味では恵まれていると言えそうだ。が、その状況を喜んでばかりもいられないような気がする。成長期に背伸びをしたからといって、物理的に背は伸びない。けれども、精神的な背伸びは、心の成長に何がしかの影響を与えずにはおかないように思う。

また、手に入る喜びの大きさも異なるんじゃないか。もちろん、ラノベによっても、思いもかけなかった世界の姿に気付くこともできる。痛切な感情を追体験することも可能だ。その結果、結構な満足感を抱けたりもする。が、それを何らかのハードルを乗り越えた末に手に入れるという要素は、あまりない。やっぱり苦労した方が達成感や喜びは大きいと思うのである。

精神的な成長、手に入る喜びの大きさ、そこらあたりで、今の中高生とかつての中高生の読書のありようが異なってきているように思うわけである。

2015年8月9日日曜日

旧暦6/25 ラノベと星新一 2

垂渓庵です。

まだ暑い。そのせいか、ここ二、三日夕立がある。雷はありがたくないけれど、雨がさっと上がった後は少し涼しい。夕立様々である。

さて、ラノベと星新一や筒井康隆さんの話を続けよう。どちらも中高生に広く指示されている(いた)ものだ。

が、ちょっとした違いがあるように思える。ラノベはどちらかというと中高生に寄り添って書かれている。中高生が主人公の作品もものすごいく多いし。

一方の星新一や筒井康隆さんの諸作品はどうか。いわゆるジュブナイルに属するものは別として、特に中高生に寄り添っているとは思えないものが大半だ。小松左京その他の1960年代70年代にきら星の如くに並んだSF諸家の作品も同様だ。

コバルト文庫の作品は別として、当時の中高生は、大人を意識して書かれた作品を好んで読んでいたことになる。市場が細分化されていなかったということもできるだろうけれど、やはり、嗜好の違いが窺えそうだ。

一言で言うならば、背伸びをしているかしていないかということになるのではないか。もちろん、星新一の作品などは、とてもリーダビリティの高いもので、背伸びをする必要もなく読めたのではないかと思う。が、その他のSF作家の方々の作品は、必ずしもそうではない。

筒井康隆さんの実験的な作品や、小松左京のスケールの大きい長編、眉村さんの中間管理職の悲哀を感じさせるような作品群、どれも中高生には手に余るところがある。が、それらを当時の中高生は背伸びして読んだのではなかったか。

このあたりの事情は、ミステリ系の諸作品についても同じことが言えるように思う。

が、長くなるのでそのあたりはまた次回ということにしよう。

2015年8月6日木曜日

旧暦6/22 ラノベと星新一 1

垂渓庵です。

暑い。とんでもなく暑い。わたしはすでに夏休みに入っているけれど、うちの同僚の中には、まだ補習をしてますって人もいる。もちろん教室に冷房は入っているが、この暑さである。いいかげん辟易しているのではないだろうか。わたしなら脱走するかもしれない。そして他の同僚と追いかけっこを演じるのである。おっかなびっくり追いかけてくるのはエヌ氏。BGMはサンバ。

などとバカな空想にふけってしまうほど暑い。もちろん、世の中には、この暑さの中営業で走り回ったり、肉体労働で汗を流す人もいるわけで、クーラーの効いた中で授業するぐらいがなんぼのもんや、と思わなくもない。が、やっぱり暑いのはやだ。内田百閒ばりに言えば、いやなものはいやだ、なのである。

さて、そんな中、生徒に借りたラノベを読んでみる。早朝の読書の時間に生徒が持ってきて読んでいる本を見ていると、ほんとにラノベが多い。わたしが学生の頃に読書の時間があったら、みんなどんな本を読んでいただろう。わたし自身は北杜夫や内田百閒を読んだに違いない。でもみんなが読んだとは思えない。多いのはやっぱり星新一や筒井康隆あたりということになるんじゃないか。SFだな。

ラノベにもSF的要素を含む作品はたくさんある。が、星新一、筒井康隆などなどの作品とは少し違うところもあるように思う。というようなことを近いうちに考えてみたい。暑さに負けなければ。

2015年8月4日火曜日

旧暦6/20 夏休みを考える

垂渓庵です。

先日ようやっと夏休みに入った。補習やクラブなどでずるずると出校し続けていたのである。

夏休みなんだからしっかり休みましょうと思うのだが、時間があるからさまざまなイベントが気軽につっこまれる。そうしたい気持ちは分からないではないけれど、使えそうな素材文を新規に探したり、少しは教材研究をすることもある身としては、実は迷惑であったりもする。いや、それ以上に、夏の間に生徒にしっかり自学自習の癖をつけさせないといけないんじゃありませんかい、と強く思う。どこまでも学校におんぶに抱っこでは、いざ入試を前にして、やたらに塾予備校に頼り切るってことになってしまう。

もちろん、手のかけなさ過ぎもよくない。かなり前に卒業させた学年のことを思い出してみると、国語と英語は普段の補習もしたけれど、休みはしっかり自分で勉強するように指導していた。一方数学は、普段補習もしないし、特に勉強に取り組む姿勢についてこれといった指導もしていなかった。さんざん横からせっついても頑として動かなかった彼の意図は謎である。そんなことをやってできてもしようがない的なことを言っていたけれど、何のご託だという感じだ。

案の定、高三になって国語や英語で塾予備校に行く者はほとんどいなかった。そりゃそうだろう。そこまでしっかり力をつけてきたのだから、その延長でがんばりゃいいだけだ。一方の数学は、上位クラスでも塾予備校に行く者の嵐である。遅まきながら補習をした彼は、成績が上がってきたのを自慢していたが、そりゃ塾予備校で力をつけてもらったのだ。もちろん、こちらも大人なので、本人に直接指摘してあげた。今は別の学年で補習をやっているみたいだ。

話が逸れた。夏のまとまった休みは貴重だ。生徒にとっても。教員にとっても。どうせだらだらしているだけだ、色々やらせておけと発想する御仁は、自身が無為に夏休みを過ごしてきた、と告白しているも同様だ。

もちろん、だらだら休みが悪いわけではない。むしろ必要な面もある。わたしの場合、まとめて本を読むいい機会でもあり、だらだらできる夏休みは本当にありがたかった。

わたしの勤務校はいちおう進学校なので、勉強させないといけない。が、それは自主的なものである必要があり、学校での拘束時間を長くすればいいというものではない。最低限やるべきことをやって、その上で自分で好きなように時間を使うように生徒を動機づけるのが、学校的にはいちばん望ましいことではないかと思うのだけれど、今や我が勤務先はおろか、世の中全体が逆の方向に向かって突っ走っている気がする。この国はどこへ行こうとしているのだろう。

2015年6月24日水曜日

旧暦5/9 良心的兵役忌避を考える

垂渓庵です。

この国で徴兵制が実現するようになったとしよう。別にそうなってほしいわけではないけれど、というよりも、なってほしくはないけれど、総理におかれては、そのような状況もまた良し、と思っておられるに違いない、と思われなくなくなくなくないので──あれ? ──、そういう状況も考えておかないといけないのかな、と思ったりするわけである。

で、徴兵制が実現するようになった場合のことである。思想信条信仰等々からする徴兵拒否を希望する人はきっといるはずだと思う。そういう人たちへの取り扱いはどうなるのだろう、と少し気になるのである。

欧米の例を見る限り、いわゆる良心的兵役忌避あるいは拒否者には、一年前後の社会福祉活動が義務づけられているようだ。

さて、この国の場合。為政者が率先して、国旗などへの敬意や愛国心を、道徳の名の下に強制しようとしている。

国旗に敬意を払うなとは言わないし、愛国心を持つなとも言わない。 わたしはどちらかというと逆の意見を持っている。あの旗の下に国のために多くの人が死んでいるのだ。肯定するにせよ否定するにせよ、しかるべき敬意を払うのは当然だろうと思うし、自分が生まれ育った土地になにがしかの愛情を持つのもまたあたりまえだと考える。

でも、それらはあくまでも自発的に出てくるべきものだ。法律や規則で強制されるべきものではない。今愛国心が十分でないと主張する人は、自発的な愛国心を育むことのできなかった国作りを、真っ先に恥じるべきだ。そして自分の力の至らなさを懺悔すべきだ。「こんな国にしてごめん」と。「いや、これまで自分はこの国の進路を決めうる立場にはなかった」などと言い訳する人には愛国心を云々する資格などない。そんなやつはきっと他人の思想信条など一顧だにしないことだろう。

と考えてみると、この国で徴兵制が実現したとして、良心的兵役忌避者は、肩身の狭い立場に追いやられるだろうという予想がつく。 旧日本軍の制度を参考にする限り、わたしは徴兵されることのない年齢に達しそうなのだけれど、それはそれとして、良心による兵役忌避が疎まれそうな昨今の状況を見る限り、徴兵制の導入には反対するしかないなと思ってみたりするわけだ。

徴兵は、政治家も含めて日本人がもっと成熟するまでお預けにしておくほうがいい。

2015年6月23日火曜日

旧暦5/8 坊主が上手にボウズの絵を

垂渓庵です。

こないだ、量子とか素粒子とかの本を読んだ。所長のような漁師ではなく、量子ね。量子。

なんでそんな本を読もうと思ったのだろう。暇だからとしか言いようがないのだけれど、それはともかく、なるほど量子の世界は奇妙だ。

粒子がボウズだったり、電子がスピンしてたり、クォークに色がついていたり。なんでそんなことになるのか、一から説明されると、なるほどと思う。思うのだけれど、ばかみたいな疑問がわき起こってくる。

波でもあるものがどうしてくるくる回るんだよ。とか、クォーク、可視光線の波長より小せーよ。色なんかねーよ。とか、素粒子の世代なんてありえねー。細胞分裂しねーよ。てか細胞じゃねーよ。とか、素粒子に味はありません。とか、加速器でむりやり粒子の数と種類増やしてんじゃねーよ。とか。行き当たりばったりなネーミングばっかすんな。とか。

もう一度書くが、それぞれについて言われりゃそうですかと納得できる。その瞬間は。でも、全体の中にすっきりと位置づけられない。つぎはぎ細工のような感じだ。進化をブリコラージュにたとえた生物学者がいたけれど、量子たちを巡る理論にも同じ印象を受けた。もうちょっとこうすっきりとした形にならないのだろうか。

2015年6月21日日曜日

旧暦5/6 夢○ビに行ってきた。その諸費用はいかに

垂渓庵です。

夢○ビという催しに行ってきた。高校生に進路選択の際の参考にしてもらおうという催しだ。たぶん。毎年インテックス大阪で行われている。

有名どころの塾や通信教育の会社、各大学などが協賛している。そのためもあってか、大学の先生によるデモンストレーション授業や有名大学の対策法など幅広いメニューが用意されている。1~7時間目まであるのだけれど、1時限あたり三十~四十ぐらいの講義が用意されている。選ぶのに困るぐらいだ。

大阪で行われるようになって5年ぐらい経つだろうか。初年度と今回と2回引率したけれど、確実に規模が大きくなっている。以前生徒を連れて行った時は、一つの建物で収まっていたはずだ。それが今回は三つも借り切っている。講義ブース(?)も増えているっぽい。

講義と講義の入れ換え時間の混雑ぶりもすごかった。いっそひどいもんだったと言ってもいいかもしれない。満員電車ですかという感じだ。高校生、いったい何人いたんだろう。まったく見たことのない制服もしばしば目にした。かなり遠方から来ている学生もいるのだろう。

ところで、下世話な話になるけれど、この催し、どういう仕組みで利益が出るのだろうか。企画運営する会社は、何らかの資料請求や発送を一括して請け負う仕事をしているようだ。たぶん大学の資料請求などに関わる会社なのだろう。とすると、参加する大学が費用を負担しているのかな。

9時~17時のインテックス大阪の使用料が3館まとめてだいたい500万円。時間外使用料も発生するとして最大700万円ぐらいか。バイトもけっこういた。時給1000円、9時~17時として一人8千円。ざっくり200人雇っていると考えて160万円。パンフなどの印刷代は、正直いくらになるのかあんまり分からないけれど、紙の媒体は、刷ればするほど割安になる。とはいえ、営業範囲が近畿圏全般~中四国に及ぶとすると結構な金額になるだろう。ざっくり500万円としておこう。これに申し込みなどのシステム構築料金が発生する。が、これは、主催する企業の業務内容から考えてお手の物だろう。

何にしても、大阪での一日の催しで発生する出費は、2000万円~3000万円か。ま、他にも見落としている経費などもあるだろうし、あくまでもざっくりとだけれど。

高校生は参加費無料だ。お金を負担するのは、大学ということになるのだろうか。参加大学はおおむね150校なので、1校あたり、20万円程度か。主催者の取り分も考えると、30万~50万というところか。

全国紙に全面広告をうつのから考えると遥かに低い料金だな。大学説明会も同時に実施できるし、大学側からすると、けっこうおいしい催しなのかもしれない。

2015年6月19日金曜日

旧暦5/4 気付けば五月だ

垂渓庵です。

年明けからちょっとした病気をしていて、病院に行ったり何やらですっかり時間がなくなっていた。年度明けからも引き続きその関係でばたばたしていた。おまけに今年度は、去年度より補習の回数が増えてしまった。そんなこんなで更新しないままずるずるきてしまったのだ。

とりあえず病気の方は一段落だ。回数の増えた補習はやっかいなものであるけれど、なんとなく慣れてきた。時間を見つけて記事を書いていきたいと思う。

近況というわけではないけれど、最近はkindleでマンガを読むことが多い。学生の頃以来だから何十年ぶりだろう。進撃○巨人だの、ワ○ピースだのは読まない。流行ってるしな。

最近読んで気に入ったのは、『少年ノート』『ファンタジウム』あたりだ。大学のころからかなりの期間読んでいた、モーニングという雑誌に整序されているのだろうか。少女漫画では──なんでだ?──『高校デビュー』『3D彼女』あたりが面白かった。

次は何を読もうかな。

2015年2月24日火曜日

旧暦1/6 吉川英治と呪法

垂渓庵です。

ぼやぼやしているうちに、旧暦でも年が変わってしまった。いいかげん図書館祝詞についてコメントしないといけないところだけれど、今回はちょっとパスして、少し軽めのネタをお届けしよう。

ちょっと前にわたしのkindleが代替わりしたと書いた。で、その代替わりしたkindleで、吉川英治の「神州天馬侠」を読んでいる。表現などを見ていると、「三国志演義」などを下敷きにしている印象を受ける。吉川版「三国志」の序文によると、少年期に邦訳「三国志」の愛読者だったらしいから、あたりまえなのかもしれないけれど。

2015年1月21日水曜日

旧暦12/2 勉強した!

垂渓庵です。

大学を出てはや20年以上。今や根を詰めて勉強することはない。よくないことだとは思いつつも、要領よく授業準備をやり、その時々に思いついたことを少し掘り下げる、というような感じで日々を過ごしている。

例外的に少し手間をかけて勉強したのが、「古文を訳させるにはシリーズ」の授業のための予習だ。もはや去年のことになる。

今回は、次の段階として予定している「歌物語を読ませるシリーズ」「和歌を読ませるシリーズ」のための勉強だ。

2015年1月15日木曜日

旧暦11/25 図書館祝詞

垂渓庵です。

去年、現代の祝詞を紹介する企画を立ち上げた。この記事だ。でも、その後頓挫した。本欄にはよくあることだ。が、一回も本題に入らなかったことはない。このままではあんまりなので、とりあえず、予告だけしていた「図書館開館祝詞」を紹介してみよう。

原文は宣命体で書かれているが、入力がとても面倒だ。というわけで、『神道大祓全集と解説』の著者である阪井正卿自身の記した「読方」に拠る形で引用してみたい。適宜漢字を仮名に直した。また旧字は現行の字体に改め、一部残したフリガナは、カッコに入れる形で示した。

2015年1月13日火曜日

旧暦11/23 kindleを買い換えた

垂渓庵です。

kindleを使っていると以前書いたことがあると思う。初代のペーパーホワイトだ。

去年末にvoyageというハイエンド機種が出た。ペーパーホワイトがだいたい1万円前後で変えていたのに対して2万円を超えてくるというものだ。

それまで使っていた初代kindleでも、文字を読むにはあまり不自由しなかったのだけれど、容量が1Gと少ない。voyageは4Gある。もはや容量一杯近くまでさまざまな文書を入れている。今後のことを考えると、そろそろ買い換えの時期かなという気もした。

2015年1月6日火曜日

旧暦11/16 古文を訳させるには5

垂渓庵です。

前回はわたしはまぬけだという話だった。今回は、わたしはこれからもまぬけだろうという話だ。

生徒に訳させるために、ネットでマイナーどころの作品を選んでしまったために、本文を整えるためにえらいこと苦労したところまで書いた。

それだけでは終わらないのである。生徒に話をする以上、自分が内容についてきちんと理解できていないといけない。本文の解釈ももちろんだけれど、出て来る人名や事項などについてもきちんと押さえる。必要がある。これがまた面倒だった。

2015年1月5日月曜日

旧暦11/15 新年おめでとうございます。

垂渓庵です。

何やら去年は数えるほどしかブログを更新しなかった。今年はもう少し更新頻度を上げようと思う。

年末から年始にかけてが更新のよいチャンスだったのだけれど、子供のお腹の風邪をもらってしまい、記事を書く気力が湧かなかった。だらだらと吐き気が続いたのである。そのまま新年に突入し、はや三が日も終わってしまった。

今年は更新頻度をもう少し上げるようにしたい。句も作り続けよう。そろそろ新学期の授業の準備を始めないといけないし、入試関連の業務もあるので、やっぱりうまくいかないってことになるような気もするけれど…。

いけない。いきなり弱気になってどうする。逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ。まずは生徒に古文を訳させる話を完結させないといけないな。近いうちに書ければと思っています。