垂渓庵です。
この時は少女マンガをとりあげた。ちなみにわたしは男なのだけれど、この記事を読んで女だと誤解した人がいる。やはり男と少女マンガとは意外なとりあわせなのだろう。
以下、本文
陸奥A子や小椋冬美など、きら星の如く並んでいた先生たちのマンガを愛好しておられたお母さん方もきっと多いと思います。わたしはお母さんではありません
が、やはり少女マンガをいくつか愛好していました。その辺の話を書きだすと長くなりますので、またの機会に譲るとして、今回は授業で取り上げたある論文をご紹介したいと思います。とは言ってもかたい話ではありませんのでご安心を。
その論文は、秋月高太郎さんの「失われた『ためらい』─少女マンガヒロインの変遷」です。岩波書店の雑誌「文学」の2006年11・12月号に掲載されました。
岩波書店と少女マンガ、一昔前の岩波書店のイメージを持っている人には意外かもしれませんが、時代の変化なのでしょう。この号には他にも、「~だわん」の
ようなキャラ助詞の分析をする論文や、テレビのお笑いの分析をする論文、映画の「マイノリティ・リポート」を取り上げる論文などが収められています。お笑いの分析をする論文には「パタリロ」まで登場します…。岩波書店はどこへ向かおうとしているのでしょうか…。
本題に戻りましょう。秋月さんはいくつかの作品を分析し、少女マンガのヒロインの造形について、おおむね次のような結論を導き出しておられます。
1970年代後半の少女漫画のヒロインの造形→自己評価が低い
受け身
男の子の告白を待つ
1990年代以降の少女漫画のヒロインの造形→自己評価が高い
能動的
自ら男の子に告白する
そして、そのようなヒロイン像の変化を、女性と男性の関係の変化に結び付けておられます。秋月さんの考察のアウトラインは次のようになります。
この間に、男性と女性の間の差がなくなっていった。
↓
女性は、優位な男性から見た理想的な女性像を
自己の理想像にする必要がなくなってきた。
↓
その結果、女性は等身大の自己のありようを
肯定することができるようになった。
↓
それに対応する形で、少女マンガのヒロインも、
理想的な女性像と自己とのギャップに悩む必要がなくなり、
自信を持って自己を肯定する存在に変化していった。
二十年以上前の少女マンガは、わたしもいくつか読んでいましたから、秋月さんのおっしゃる特徴が実感として理解できる気がしました。ですから、最近の少女
マンガ事情についての秋月さんの分析も、信頼できるのではないかなと思いました。で、面白いなあと思って、評論文の問題演習のウオーミングアップに、三学期の授業の最初に読んでみたのです。
近代が、自我が、言語が、というようなガチンコの評論文にはアレルギーを示す生徒たちも、けっこう面白そうに読んでいました。分析の対象が別のもので、語
り口も秋月さんのように平易でなければ、きっと生徒は拒絶反応を示すことでしょう。こんなところから、さまざまな事象を分析する評論文の面白さに気づいてくれるといいと思うのですが。
ついでに、90年代以降の少女マンガについて女子生徒に確認してみたところ、最近の少女マンガの傾向は、秋月さんの言うとおりだということでした。秋月さ
んの紹介されている作品のストーリー展開も彼女たちの読む少女マンガと同じような傾向だそうです。それを聞いて、わたしは、やはりそうだったかという気持ち半分、軽い驚き半分でした。
なぜ驚いたのかというと、秋月さんが分析の際に紹介しておられる作品のあらすじが、昔の少女マンガのイメージしかなかったわたしには意外で、「なんじゃこりゃ!」というものだったからです。次に二つほど概略を挙げてみます。
○ ナンパされた男の子の一人がタイプだと思った主人公が、なんとその男の子のお父さんに「この女の子を彼女として推薦する」という推薦状を書いてもらい、男の子に推薦状を手渡して、好きと告白する。(吉住渉「ランダム・ウォーク」)
○ つきあっている彼氏の親友を好きになった主人公が彼氏と別れて、喧嘩をしてはだめだと優しく声をかけて抱きしめてくれたその親友に好きだと告白する。(美森青「君に向かって走る」)
むかし少女マンガを読んでいたお母さん そして少数のお父さん は、どんな印象を持たれたでしょうか。わたしと同じように松田優作になっちゃわなかったですか。
わたしは、秋月さんの分析は正しいだろうと思いつつも、例として出されている作品は、分析を印象づけるために、とくに奇抜なものが選ばれているのだろうと
思っていたのです。が、違ったのですね。いまの女の子はこんなのを読んでいるのかと改めて認識を新たにした次第です。彼らの読むケータイ小説その他も、どんなことになっているのか気になるところです。時代はどこへ向かおうとしているのでしょうか。
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