2012年3月25日日曜日

旧暦3/4 再掲 松平定信、卵を孵す──定信ったら 4

垂渓庵です。

2009年4月公開。「定信ったら」シリーズだけじゃなくって、江戸時代の随筆を紹介しようと思うと、ものによったら中味の考証を行わなければいけないことに、このあたりから気づきだした。考証自体は面白いのだけれど、時間がかかるのが難点だ。この回はまだ楽な方だった。というわけで、考証しかけてほったらかしてあることが随分ある。

以下本文

この定信シリーズ、いったい何回まで行くのか。きちんと記事のメモをとっていなかったので、わたしにもわかりません。この先いつまで面倒な古文を打ち続けねばならないのか。不吉な予感に震えが走っている垂渓庵です。

ともかく乗りかかった舟です。あとはこれが沈み行く箱舟でないことを祈るのみ。

では、参ります。


卵を孵すはなし p45
鶏の卵、火気をもて温めなば生ずべしと思ひて昇降水の玉をにはとりの鳥屋(とや)に入れて、その暖気の程を試し、一つの箱をしつらひ、中のほどを板にて仕切り、内に綿など多く入れ、上下に炉を置き、その藁の内へ卵と昇降の球を入れて、火気の強弱なからしめける。しかるに十余日も経にける頃、まづ一つうち砕きてそのほどを見るべしとて割りけるが、いささか腐れもせず、鶏の子そのままにてかしらを足の間に入れて、目も未だ開かず、尤も息も通はず、毛は大概に生えてありけり。後に聞けば琉球にて鶏卵を蒸して生じさせぬるといふ。去年より薩州にてもその法を習ひ得てなすといふ。色々尋ねしかど、詳しく聞かざりしとてかの法は語らず。シヨメールに枕のやうなるものに鶏の糞と毛を入れ、卵をたてにして細き方を上になし、またその枕を上の方にも置き、暖かなるところに置き、三日過ぎてその卵を上下を回し置き、二十一日目に卵を割りて鶏を出だすといふ。並びにシヨメールが考には火の勢ひをもて卵をも生じぬべしとのみ書きお けり。

どうでしょうか。定信、卵を孵しちゃおうとしています。それほど難しい文章ではありませんから、二、三、注記をするにとどめておきます。

昇降水の玉(球)とは、おそらく温度計だろうと思います。鶏小屋の気温を計ったり、炉で卵を温める器具の温度が一定になるように管理するために用いているようですね。日本で温度計で温度管理を行った早い例になるのではないでしょうか。

琉球で鶏卵を蒸して孵すという話はまだ調べがついていません。その方法が薩摩に伝わったってのも同様です。もしも何かご存じの方はご一報下さい。

シヨメールというのは、おそらくこれのことです。ただし、このウイキペディアの説明による限りでは、幕府が翻訳を命じたのは定信の失脚後のことです。彼がどのようなルートでこの本の内容を知ったのかについては、もう少し考える必要がありそうです。

さて内容について少しコメントしておきましょう。

「まづ一つうち砕き」とあるのですから、卵は一つではなかったはずです。試しに割った一個以外の卵はどうなったのでしょう。定信はそれらについては何も記していません。割った卵は順調に発育していたらしいことがわかるだけに、とても気になります。無事に殻を割って外に出てきたひよこが、刷り込みによって定信を親鳥と思い、後を追いかけ回していたのだとしたら面白いのですが。

それにしても、リヨクトポンプといい、この卵の孵化装置の製作といい、定信の実験精神の旺盛さはいったい何なんでしょう。まるで理科の実験大好き少年です。でんじろうさんも子供の頃はこんなだったのでしょうか。政務にすぐれていた定信は、強い好奇心の人でもあったのですね。

次回、定信は香辛料にまで好奇心の魔の手(?)をのばします。すげえや。

0 件のコメント:

コメントを投稿