垂渓庵です。
これは2010年8月に公開した。それにしてもわかりにくい歌だ。こういう歌を解釈するのは嫌いではないけれど、時に面倒になる。この時も気持ちが折れそうになった。結局記述を二回に分けることになった。挙げ句の果てに元国語力研究所所長に難しすぎると言われてしまったのだった。むう。
以下本文
垂渓庵です。
満を持して始まった「和歌はわからん」シリーズ。
ちまたの受けはいいのか悪いのか。
今時、和歌なんて流行らないんじゃないかとは思うけれど、自分の興味の赴くままに突っ走るのが快感であったりもする。
というわけで、時代の流れとは無関係に、第二弾、とりあえず、いってみようか。
二回目に取り上げるのはこの歌。
思ふ人思はぬ人の思ふ人思はざらなん思ひ知るべく
さあ、これまた前回とは違った意味で「わからん」歌だ。後撰和歌集の巻第九恋一に収められている。本文は新編国歌大観から表記を少し改めて引用。
さすがにこれだけだと情報量が不足し、当時の人たちにとっても分かりにくい歌になっていたんじゃないか。そういう場合はどうするか。詞書(ことばがき)とか題詞(だいし)と呼ばれる前書きを付け加えておくのだ。詞書とセットでもう一度この和歌を再掲しておこう。
思ふ人侍りける女に物のたうびけれど、
つれなかりければ遣はしける
思ふ人思はぬ人の思ふ人思はざらなん思ひ知るべく
この歌、高校生に解釈させたことがある。結果は惨憺たるものだった。詞書と変にリンクさせたために軒並み自滅していたのだ。そこら辺を注意しながら解読したい。
まず、詞書の内容の確認だ。
「思ふ人侍りける女」とは、「好きな人がおります女」ってこと。「侍り」は「ある」とか「いる」の丁寧語。ここでは、後撰和歌集という歌集の読み手に対す
る敬意を表す。ここでの読み手はまずは天皇さま。なぜなら後撰和歌集は時の天皇の命令によって和歌を選りすぐって作られた歌集だからだ。
「物のたうびけれど」は、「ことばをおかけになったけれど」という意味。「のたうぶ」は「のたまふ」と同じく「言う」の尊敬語。どうやらこの歌を詠んだ人
物は身分の高い人だったということがこのことばから分かる。一方の女には尊敬語を使っていないから、身分の低い女だったのだろうと推測できる。
「つれなかりければ」は、現代でも「つれない」と言うから想像がつくだろう。「冷たかったので」というぐらいの意味になる。要は、男が声をかけたけれど女の方の反応はいまいちだったってことだ。
「遣はしける」は、「おやりになった」。後に「歌」ということばが省略されていると考えてほしい。「おやりになった(のが次の歌です)」というような感じになる。「遣はす」は、「やる」の尊敬語。
全部をまとめるとどうなるだろうか。
好きな人がおります女に(ある身分の高い男が)ことばを
おかけになったけれど、(女は)冷たい態度だったので、
おやりになった(歌)
のび太がしずかちゃんに好きだと言ったけど、しずかちゃんにはできすぎ君という好きな人がいて、つれない返事をされた、ってな風に考えてほしい。実際のドラえもんの人物関係とは違うけどね。
さて、この詞書を踏まえて一度自分でこの和歌を解読してみてほしい。
どう解読できるかは来週解説しよう。
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