2012年3月13日火曜日

旧暦2/21 再掲 ウルトラマン!─卒業生に贈ったことば

垂渓庵です。

前回のメビウスに引き続いて特撮ネタ。これは2007年4月に公開したもの。あまり何も考えずに卒業生に贈ることばにウルトラマンのことを書いてしまったのだけれど、学校的にはよろしくなかったんではないかと思わなくもなくない。

以下、本文

わたしはウルトラマンメビウスという作品が大好きですが、いちばん好きなのは初代ウルトラマンです。なぜ好きなのかは、ドクターフェルを嫌いな人がその理由をうまく言 えないのと同様にうまく言えませんが、あえて説明をするならどうなるだろうなと思いながら、卒業生に送ることばとして校内誌に書いたことがあります。

以下はその一文です。校内誌に書いたものですので、普段の本欄の文体と違っていますが、これを読めば、なぜ初代ウルトラマンが好きなのか、何となくわかっていただけると思います。    



「卒業おめでとう」             
のっけから何の話をしているのかと怒られそうだが、私はウルトラマンが好きだ。みなさんご存じのあのウルトラマンである。とは言っても、あの赤と銀色の フォルムそのものが大好きだというわけではない。あの姿は、どちらかというと子供のヒーローらしくない面妖なものだし、シリーズ前半の顔の造形などはむしろ怖いぐらいのものである。私が好きなのは科学特捜隊員たちだ。

ウルトラマンに助けられてばかりの自分たちの存在意義を疑うイデ隊員。あくまでも怪獣に対して猪突猛進する、あまりに単純なアラシ隊員。倒された怪獣の運 命に涙し、時には真珠に目の色を変えるアキコ隊員。変身の際にスプーンをかざす、ヒーローらしからぬハヤタ隊員。緊急事態に制服を後ろ前に着てしまうムラ マツキャップ。そして、子供達の悲しみや夢を背負う怪獣にはスペシウム光線を放てないウルトラマン…。子供向け作品の常としてデフォルメされてはいるが、善意を胸に抱きつつ、私たちと同じように欠点や悩みを持つ人間の姿が、そこにはある。彼らは私たちなのだ。

科特隊の隊員たちは、弱さや欠点を抱えながらもひたむきに生きる。その姿を見ていると、超越的な強さを持ったヒーローは彼らにそぐわないのではないかと思えてくる。自分自身の力で困難を乗り越えていく方が彼らには相応しい。

最終回、ウルトラマンはゼットンに倒されて退場する(ちなみに最後に出てくる怪獣なので「Z」と「ん」を組み合わせてゼットンという名前になったそうだ)。そして、あとには隊員や私たち人間が未来を切り開くラマが残される。

ウルトラマンのいない中、君たちはこれから自分自身の力で未来を切り開いていく。君たちがドラマの主人公だ。人間らしさを失うことなくひたむきに生きてほしい。前途は洋々たるものだ。

卒業おめでとう。


    前回のお話との関連で、少しメビウスについての考察を書き加えておきます。

メビウスの立ち位置は少し微妙で、わたしがここに書いた、超越的な力を持った神のような存在というだけではないように思います。もちろん、人間と較べれば 圧倒的な能力を持っているのですが、メビウス=ヒビノミライは、わたしたち人間がともに戦う仲間の一人のようなものとして描かれています。初代ウルトラマンは人類の見方ではありますが、そのような仲間とは少し違っていました。そもそもあまりしゃべりませんでしたし笑顔

メビウスの最終回でリュウはゾフィーとヒカリに対して、「大丈夫! 地球は、俺たちの手で守っていける!」と力強く宣言します。ネット上のメビウスファンサイトの中には、このことばを、リュウは地球人だけでやっていけると言っているのだと解釈しているものがありますが、おそらくそれは間違いです。リュウのいう「俺たち」には、メビウス=ヒビノミライも含まれているととる方が自然です。だからこそ、リュウは新たな使命のために光の国へ帰ろうとするミライに驚くのです。

メビウス=ヒビノミライは、わたしたち人間と深い絆で結ばれたウルトラマンです。もちろん最初からそんなことはなかったのだと思います。おそらく「ウルト ラマンメビウス」という作品は、ウルトラマンがそんな絆を獲得していく一種の成長物語として描かれているのではないかなというのが、未見の話をぽつぽつと 見始めているわたしの持っている予想です。(スペインの哲学者サバテールの言う「物語」の定義に当てはまる作品になっているのではないかなという気がしています。サバテールについては、いずれこのブログで書きたいと思っています。)

さてその予想は合っているのか、メビウスのDVDの続きを見ていくのが楽しみです笑顔

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