2012年3月24日土曜日

旧暦3/3 再掲 松平定信とエレキテル──定信ったら 2

垂渓庵です。

これは2009年3月に公開した。エレキテルといえば平賀源内だけれど、定信もしっかり興味を示しているわけだ。コメントの「いかのぼりの~」の部分について、元記事に訂正を加えた。たぶんこっちの方が適切なんじゃないかと思う。


以下本文

何やら面倒な考証の世界に足を踏み入れねばならない予感に震えている垂渓庵です。

というわけで──どういうわけだ?──今日は先週の木曜にアップするはずだった記事を少し遅れてお届けします。お題はエレキング、もとい、エレキテルです。


○エレキテールセーリセイトの話p32
エレキテールセーリセイトと云ひて、玻璃車を転して火気を発する器あり。ただわが国にては、蛮国の奇器を尊信すること、実に過ぐるが故に、この器をもことにもてあそぶなり。いま琥珀の塵吸ふをばあやしまずして、この器をあやしむぞ愚かなる。総て火気はものをこなたへ呼ぶ勢ひあり。滑なるものをいくども擦れば、おのづから火気を生ず。その火気ものを呼ぶ故に軽き毛羽なんどを吸ふなり。全てのもの火気のあらざるものはなし。水中とてもみな火気はあるなり。その火気に感ずればたちまち応ず。故に温暖の気至れば、衆陽のためにその一物の火気長ぜず。或いは空船なんどいひて、空気に乗する船ありといふ。未だ蛮書には見えずとなん。いかのぼりの大きなるには、人その糸に攀ぢなば空中へものぼるべし。何の用にもたたざるべし。

いわゆるエレキテルです。玻璃とは水晶などを指します。火気はたぶん放電の火花ではないかと思います。以下、各節についてコメントしておきます。

「火気はものをこなたへ呼ぶ勢ひあり。滑なるものをいくども擦れば、おのづから火気を生ず。その火気ものを呼ぶ故に軽き毛羽なんどを吸ふなり。」は、摩擦 によって静電気を帯びさせた下敷きに髪の毛や紙が吸い寄せられることを思い浮かべればいいのだと思います。それにしても、「火気はものをこなたへ呼ぶ勢ひ あり」は何に拠っているのでしょう。上に述べた現象を何とか理解しようとした結果、そう考えられるってことになったのかもしれません。

「全てのもの火気のあらざるものはなし。」は、電気的に中和されている状態も含めれば間違いではないもののように思いますが、定信がそこまで考えていたとも思えません。あるいは、五行思想の「火」との関連で考えるべきなのかも知れませんが、存疑です。

「水中とてもみな火気はあるなり。」電気が水の中でも流れるということをこのように表現したとも思えますが、やはり存疑です。

「その火気に感ずればたちまち応ず。故に温暖の気至れば、衆陽のためにその一物の火気長ぜず。或いは空船なんどいひて、空気に乗する船ありといふ。未だ蛮書には見えずとなん。」このあたりもやはり存疑です。熱気球の原理を述べているもののようにも思えますが、電気と何の関係があるのやら。リニアモーターカーの原理を述べているのなら、まさに「スゲエ!」ですが、たぶん違うと思います。「衆陽」ってのは易学で出てくることばのようですから、易、陰陽五行説 あたりの知識が背景にあるのだろうなと思いながらも、その方面に調査の手をのばす気になれないわたしは弱い人間です。

「いかのぼりの大きなるには、人その糸に攀ぢなば空中へものぼるべし。何の用にもたたざるべし。」要は定信は、凧(いかのぼり)のでかいのがありゃ、その糸をよじ登ったら空中に行けるだろう。「空船」なんていってもその程度のもので、何の役にも立ちはしないと言っているんですね。白影が聞いたら目をむいて怒りそうなことばです。白影だけではありません。かつて赤影に胸を躍らせた中年~初老をも敵に回したと言っても過言ではありません。そんなことだから、改革が尻すぼみに終わるんだ、定信。いや、そんなことはないか。

何にしても、「わが国にては、蛮国の奇器を尊信すること、実に過ぐるが故に、この器をもことにもてあそぶなり」ということばには、「蛮国の奇器」への過度 の尊信に対する批判があります。こうやって記事にするぐらいですから、定信自身もこのエレキテルに興味を持たなかったわけではないのでしょうが、何やらわ けもわからず有り難がるという姿勢ではありませんでした。彼は西洋の文物への好奇心を持っている一方で、西洋文明を盲目的に崇拝することには批判的だった のです。などとえらそうなことを書いていますが、よく考えてみたら今回は「不審」「存疑」だらけだったのでした。春休みに入り激しく休みモードになってい る垂渓庵でした。むう。

さて、次は、え~と、何の項目だったっけっかな。あ~、ん~、……次回をお楽しみに!

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