これは2007年11月に公開したもの。答えを示してから半月以上経っている。なかなか記事を書き上げることができなかったのだろうと思う。お母さんはパパだっただなんて、ちょっと衝撃的ではあるまいか。
以下本文
垂渓庵です。
遅れに遅れまくりましたが、ようやっとクイズの解説です。
まずクイズのおさらいをしておきましょう。
母には二たび会ひたれども父には一度も会はず
さてさてそれはいったい何でしょう?
というものでした。答えは、そう、「唇(くちびる)」です。
このクイズを解くためには、日本語の発音の変化──とくにハ行音の変化──を考える必要があります。
とても大雑把に言うと、かつてハ行音は「ハヒフヘホ」ではなく、「パピプペポ」だったのが、いずれかの時点で「ハヒフヘホ」と発音するようになった、と考えられるのです。そのように考えることのできる根拠としては、以下のような事実が挙げられます。
1 カ行とガ行、サ行とザ行、タ行とダ行をそれぞれ比較してみると、舌や唇の位置や動きが類似していて、カ行とガ行、サ行とザ行、タ行とダ行が、それぞれ対応関係にあることが分かる。
それに対して、ハ行とバ行とは他の清音-濁音の組み合わせと大きく異なる。ハ行は唇を開いたまま発音するのに対して、バ行を発音するためには唇をいったん閉じてから開かねばならない。また、ハ行のみ半濁音(パ行)が存在する。
以上に見るように、他の清音-濁音の組み合わせに対して、ハ行-バ行のみが例外的存在となってしまっている。
2 古代インドの言語であるサンスクリットや古代中国語のH音の漢字が日本語ではK音を用いて発音されている。
Arahan 阿羅漢 Maha 摩訶 Rahula 羅●羅 ●…目偏に侯
ローマ字がサンスクリット。漢字が仏典でのその音訳。下線を引いた漢字は、すべて中国語では「H」音で、サンスクリットともきれいに対応している。
一方、日本語では一般的には「あらかん」「まか」「らごら」とK(G)音で発音する。古代日本語にはH音がなかったので、比較的舌の位置などが似ているK音が用いられたのではないかと考えられる。
3 P音、F音、H音を区別するアイヌ語に入った日本語の中には次のようなものが見られる。
Pekere 光 Pakari 量 Pera 匙
Pishako 柄杓 Pone 骨 Puri 振
これらはもともとの日本語での発音を反映しているのではないかと考えられる。
以上は、以前ちぎれる本を話題にした際に書名だけ挙げた、上田万年の「国語のため 第二」(明治36年出版)所載の「P音考」という論文に指摘されています。
これらの例を見ると、古代の日本語のハ行音は本来P音だったと考えた方が、すべて統一的に説明できるということがわかるのではないかと思います。
その後現在のごときハ行の発音になる過程でハ行音は大きく変化します。冒頭のクイズを載せている『体源抄』の成立時期に、古代のような形でハ行のP音が完全に保存されていたわけではありません。
が、変化が生じたからといって、ある時点でP音が一斉に消えたわけではなく、さまざまな複合語や特定の言い回しなどの中にP音は残存していきます。現在も半濁音がさまざまな語に現れることからも、それは容易に想像可能です。
室町期の雅楽書である『体源抄』に冒頭のようなクイズが載せられていたことも、母という語にそのようなP音の残存があったのだろうと考えることで説明ができるのではないかと思います。
このあたりの変化の実際や変化の意義づけについては、たとえば、中央公論社から出ていた日本語の世界というシリーズの中の「日本語の音韻」(小松英雄 著)などが、参考になります。
当時としては当たり前であったかもしれない謎々が、実はとても興味深い現象の存在を告げてくれているわけですね。同じように、今はごく当たり前の言い回し などが、遙か未来にはある重要な言語変化について鮮やかに示している、というようなこともあるのかもしれません。それをこの目で見られないのは、ちょっと 残念です

0 件のコメント:
コメントを投稿