2012年3月25日日曜日

旧暦3/4 再掲 松平定信、銅板鏤刻を試みる──定信ったら 3

垂渓庵です。

これは2009年9月に公開した。今回採録するに辺り読み直してみたけれど、あらためて松平定信は面白い人だという印象を持った。ただの堅物じゃなかったわけだ。いっそそういう面を表に出した方が、同僚諸氏や将軍の受けもよかったんじゃないかと思わなくもない。


以下本文

垂渓庵です。

いよいよ新年度がスタートしました。

わたしもビビッドでフレッシュな話題をお届けしたいと思っています。

でも今回も埃をかぶったような古い話……(--)

時代にだけではなく時節にも逆らう耽読翫市をどうぞよろしく。

今回は銅板鏤刻についてです。


○銅板鏤刻のことp44
銅板鏤刻、蛮製にあれど、我国にてなすものなし。司馬江漢といふ者はじめて製すれども細密ならず。ことにいといたう秘して我のみなすてふ事を追ふなり。さ るに備中松山の藩中にこのころなす者あり。殊に細密蛮製に違はずとぞ。予も昔こころみしが、蛮書などにあるを訳させて試みしによからず。人をもてかの士へ 尋ね問ひたるに、銅板に炭の粉をもて磨き、その板を火の上にのせ、せしめ漆といふをことに薄く銅色の見ゆるほどに塗るなり。さてその板を三日ほど乾かして 下絵描きて、細きたがねまたは針なんどにてその漆を彫りうがち、日の当たる所へ出し、薬を筆にて三四度もつけ、紙に酢をひきてその紙をもて銅板の表にあ て、一夜屋の下などへ置き、熱き湯をもてその漆を去りて墨もて摺(す)るなり。

銅板鏤刻とは、印刷技術の一つのいわゆるエッチングという技法のことです(たぶん)。銅を腐食させたへこみにインクをのせ、銅板に紙を圧着させることで印 刷するという技法ですね。と見てきたようなことを書いていますが、その工程を実際に見たことはありません。エッチングの概略はこちらでどうぞ。

さてさて、「退閑雑記」の本文について簡単にコメントしておきましょう。

最初の一文はいいですね。西洋では行われているけれど、日本では行われていなかったようですね。

「司馬江漢といふ者はじめて製すれども~我のみなすてふ事を追ふなり。」
日本では司馬江漢が初めてやったけれど、精巧なものじゃなかった。特にその製法を秘密にして自分だけが行えるものとしたかったってことです。司馬江漢、中世に芸事の家で秘伝を喧伝したようなことをしていたのでしょうか。

「備中松山の藩中にこのころなす者あり。殊に細密蛮製に違はずとぞ。」
ネットで検索する限り、これは松原右仲という松山藩に仕えた儒者のことのようです。「蘭学者相撲見立番附」の東方前頭 六 枚目に名前が見えるとか。同番付の西方前頭六枚目は司馬江漢だそうです。銅版画つながりで対になったのですね。詳しくはこちらをどうぞ。また、彼の銅版画の「万国輿地全図」の画像はこちらに。

「予も昔こころみしが、蛮書などにあるを訳させて試みしによからず。」
瞠目すべき記述です。松平定信、エッチングを自分で試していました。しかも洋書の記載を基にしたのです。失敗はしたそうですが、何とも進取の気性に富んだ人ではありませんか。彼、たしか「リヨクトポンプ」も実際に作ってました。 それにしてもいつごろそれらに取り組んでいたのでしょう。藩主となる前、若いころだったのか。それとも藩主時代か。いくら何でも寛政の改革に取り組んでい る頃ってことは…。あるいは隠居してからか。う~ん、知りたい。彼は多くの著作を残していますので、追い追いそれらを読んでいってみようと思います。

「人をもてかの士へ尋ね問ひたるに~熱き湯をもてその漆を去りて墨もて摺(す)るなり。」製法の実際についてはコメントをしかねるのですが、ここで「かの 士」と言われているのは、文章の流れから、松原右仲であろうと思われます。司馬江漢であれば、製法を「いといたう秘して」いた以上、詳しく教えるはずもあ りませんし。松原右仲と松平定信の仲立ちをしたのは松山藩主板倉勝政あたりでしょうか。勝政は定信の老中時代に寺社奉行を命ぜられています。

この項目はリヨクトポンプの項目とあわせて、実験好きの定信の一面を鮮やかに示しているのではないかなと思います。なお、銅板鏤刻の薬剤や製法の子細を書いた「薬方」がこの後に続くのですが省略します。興味のある方は直接「退閑雑記」にあたってみてください。

次回、定信は卵を孵しちゃいます。

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