垂渓庵です。
これは元サイトと同日公開だ。くどいようだけれど、あくまでも元のブログの更新が今日で終わりなのであって、今日で本ブログが終わるわけではない。本ブログのみの特典──ほんとうに特典か?──として、「和歌はわからんシリーズ」の新作を併載した。お楽しみいただければ幸いだ。なお、今日は30分刻みで「和歌はわからんシリーズ」全4本をコメント付きで順に公開した。そちらもお楽しみいただければと思う。
以下本文
垂渓庵です。
さて、今回でこのブログも最後の更新となった。思えばまる五年、好きなことを書き連ねてきた。時にはZ会的にはいかがなものかと思われる記事もあったことだろうが、思うままに書かせていただき、感謝の言葉もない。
昨日も書いたように、今後は、「耽読翫市─もと太鼓打ちのブログ」に活動の場を移すが、毎週木曜日の記事の更新をめざしたいと思っている。これまで同様ご愛顧を賜ることができれば幸いだ。というわけで、さようならとは書かない。
最後にトリッキーな別れの和歌を一首ご紹介しよう。「和歌はわからん4」だ。
人のもとに日頃侍りて帰る日、あるじに言ひ侍りける 僧都清胤
二つなき心を君にとめおきて我さへ我に別れぬるかな(詞花和歌集より)
清胤は10世紀後半の僧侶。平安時代中期の人だ。源氏物語のできる十年ほど前に亡くなっている。
「二つなき心を君にとめおきて」は、とても名残り惜しい気持ちでいることを示している。あまりにも名残惜しいので自分の心を相手のところに留め置いているというのだ。
何か強く惹かれる対象がある場合、心はそれを求めて心の持ち主を離れてさまよい出る。平安時代によく見られる発想だ。
a 山高み雲井に見ゆる桜花心の行きて折らぬ日ぞなき(古今和歌集より)
b 思へども身をし分けねば目に見えぬ心を君にたぐへてぞやる(同)
aは山高く見える桜の花への愛着を詠んだ歌。bは東国へ下った人に贈った歌。体はついて行けないので、心を相手に連れ添わせると詠んだ。いずれにしても、心は体を離れるものだったことが分かる。
二つとない心が身と離れるということは、心と身とが分かれることだ。そう考えると、自分は相手と別れるだけではなく、自分自身とも別れることになる。理屈としてはその通りなのだけれど、それだけに、理屈が勝ちすぎていて、惜別の情などあまり感じられないという人も多いと思う。
現代の我々から見れば、確かにその通り。しかし、それなら清胤は相手と別れるに際して、どうしてこのような歌を詠んだのか。また、詞花和歌集になぜとられたのだろうか。
清胤は、当然名残惜しさを感じたことだろう。それでなければわざわざ歌を詠んだりはしない。しかし、名残惜しさをストレートに表現しなかったのだ。その名残惜しいという気持ち自体をいったん対象化して、そこから事態を分析的にとらえ直し、和歌の形にしている。その結果、とても理屈っぽい形の和歌ができあがってしまったわけだ。
清胤がそのような形で和歌を詠んだのは、それが当時の人にとって面白かったからだという他はない。高校の文学史の知識を思い出してもらえればいいだろうか。古今和歌集の特徴は理知的なことだと習ったことと思う。
自己の心情をあらわに述べるのではなく、それを対象化して分析的に述べる、それこそが古今和歌集で前面に押し出された理知的な歌風の正体だ。清胤は古今和歌集の成立後半世紀ほどして生まれている。新古今和歌集でさらなる新風が巻き起こるのは遙かに先のこと。時代はまだ古今和歌集の影響下にあったと言っていい。そう考えれば、清胤がこのような歌を詠んだ理由もわかるだろう。彼は時代の子だったわけだ。
それでは詞花和歌集がこの歌を採用したのはなぜだろう。確定的なことは言えないけれど、身と心とを分ける発想を踏まえて、身と心とが分かれるということは、自分と自分とが別れることだとさらに分析を進めているところに面白さを感じ取ったのではないかと考えられる。詞花和歌集は新風を吹き込んだ金葉和歌集に対抗する形で、どちらかというと調和的な和歌を評価する形で編まれた歌集だ。古今風の正統を行く清胤の歌が選者の目に好ましく映ったのではないかと考えられる。
いずれにしても、平安時代の人たちの心性は、現代の我々と共通する部分も多いけれど、異なる部分もあるということだ。古典はそれを踏まえて読んでいかないといけないのである。
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