垂渓庵です。
これは最近アップしたものだ。最近の文体はこんな感じ。あさって以降に順次公開していく過去の記事とはだいぶ文体が違う。明日の「はじめまして」の後に公開すればよかったのだけれど、うっかりしていた。ブログを始めたとたん終わるというわけではない。
先日、本欄の担当さんからメールがあって、この3月いっぱいで本欄を終了することとなった。スペースをいただいて書いてきた身に否やはない。残念だけれどね。
直球勝負
和歌はわからん
続・定信ったら
旲の近く
震災を巡る
など、書きかけのままで中断しているシリーズがあるのが心残りだけれど、内田百閒風に言うなら、やむを得ないものはすなわち仕方がない。というわけで、木 曜のレギュラー更新としては、残り4回となった。何を書こうかと少し考えたけれど、あまりいい考えが浮かばない。というわけで、今のところ、これまで通りの更新をうだうだと続けていくことにしている。何かいいアイデアを思いついたら別だけれど。
ただ、別れを惜しむという意味で、本欄の表題を変えることにした。題して「勧君金屈巵」。「君に勧む金屈巵(きんくっし)」と読む。本欄の古い読者ならあるいは覚えておいでか。井伏鱒二の翻訳で親しまれている別れの漢詩の一節だ。
さて、役に立たない情報というか、情報の化石のようなものを書き連ねてきたわたしとしては、最後ぐらいは学生諸君の役に立つものを書いてもいいかという気 がしないでもない。そこで今回は、今後社会に出ていく学生諸君が身につけるべき、社会人に必要な国語力について考えてみたい。扱う素材は本欄の終了を告げ る担当さんのメールだ。というのは、そこには社会人として必要な国語力が顕現しているからだ。とは言っても、全文の引用は憚られるので、冒頭部分を見てみることにしたい。
本欄にはZ会あるいは本欄の読者に貢献するところが甚だ少なかったという自負(?)がある。更新期間こそ長かったものの、自分の好きなことを書き連ねてき ただけの本欄だ。Z会ブログのトップページに並び立つ、有益な情報満載の各ブログとの差は歴然としている。そこのところをおさえた上で分析を進めていこう。
本欄はZ会ブログスタート後間もなく始まっている。無益な情報を発信し続けたわりには、更新期間はそこそこ長い。つまり、それだけ本欄の終了を告げるのは 難しい作業ということになるわけだ。えっと、わたしが扱いにくい古狸だとか気むずかしい奴だとかいうわけじゃないですよ。今後ともいい関係を続けていこうと思うと、関わりが長ければ長いほど、断りを言う際に慎重さが必要になるということです。
さて、担当さんのメールの冒頭は以下のようになっている。
「(前略)先生のご協力により、Z会ブログは開設当初に比較してかなりの盛り上がりとなり、おかげさまで当初の目標を達成することができました。開設当初 は、ブログそのものの維持・発展などありえるのだろうか、と心配ばかりが多い船出ではありましたが、その牽引役を果たしていただき、本当にありがとうござ いました。」
本欄のZ会ブログへの貢献がいかに大きかったかを顕彰・慰労する形で始まっていることが分かるだろう。本欄が牽引役を果たしていなかったことは明らかだと 思うのだけれど、そこはそれ、露骨にそんな風に言わないのが社会人の国語力だ。とは言え、いくら相手を立てるためとは言え、あからさまな嘘はいけない。も しも、本欄のおかげでZ会ブログの今日がある、Z会ブログの今日があるのはひとえに先生のおかげです、などというようなことを書いたとしたら、それは社会 人として失格だろう。「牽引役」という言葉は、そこらを勘案すると、国語力的にすぐれた表現だと言えるだろう。こういう言葉を思いつくためにはやはり普段からの蓄積が必要だ。さすがだ、と言っていい。
告げにくいことを告げる際には、気配りが必要だということがわかると思うが、その気配りにもさまざまなものがある。上に見たように不自然にならない形で直 接的に相手を持ち上げる気配りもあれば、さりげなく自己あるいは自己の側への評価を低めに設定する、という形の気配りもある。
「開設当初は~船出ではありました」が、そのあたりの機微を伝えてくれる。これはあくまでも謙遜の表現だということに注意したい。開設当初からZ会ブログを見てきた身としてよくわかるのだが、そのコンテンツは当初から充実していた。また、一貫して成長を続けてきた。
それを考えると、Z会ブログに関わる担当者の方々が相当の自信・自負を持っていたとしてもおかしくない。また、そうであってほしいと思う。が、こういう場合にそれをあからさまにしてはいけない。あくまでも自らは姿勢を低くしなければならないのである。
以上をまとめるなら、相手が望ましくないと思うかもしれないことを持ちかける際には、相手を持ち上げる一方で自らの側はへりくだることが大切だということだ。また、言葉遣いを丁重なものにしなければならないことは言うまでもない。
それらの気配りは、ちょうど尊敬語、謙譲語、丁寧語の三種類の敬語の働きに対応している。敬語には人間関係を円滑ならしめる働きがあるが、以上のように考 えるならそれも当然だと言えるだろう。適切な時に適切な言い回しで相手との関係を円滑に進めていく、その要諦が担当さんのメールには鮮やかに表れているわけだ。
これは最近アップしたものだ。最近の文体はこんな感じ。あさって以降に順次公開していく過去の記事とはだいぶ文体が違う。明日の「はじめまして」の後に公開すればよかったのだけれど、うっかりしていた。ブログを始めたとたん終わるというわけではない。
先日、本欄の担当さんからメールがあって、この3月いっぱいで本欄を終了することとなった。スペースをいただいて書いてきた身に否やはない。残念だけれどね。
直球勝負
和歌はわからん
続・定信ったら
旲の近く
震災を巡る
など、書きかけのままで中断しているシリーズがあるのが心残りだけれど、内田百閒風に言うなら、やむを得ないものはすなわち仕方がない。というわけで、木 曜のレギュラー更新としては、残り4回となった。何を書こうかと少し考えたけれど、あまりいい考えが浮かばない。というわけで、今のところ、これまで通りの更新をうだうだと続けていくことにしている。何かいいアイデアを思いついたら別だけれど。
ただ、別れを惜しむという意味で、本欄の表題を変えることにした。題して「勧君金屈巵」。「君に勧む金屈巵(きんくっし)」と読む。本欄の古い読者ならあるいは覚えておいでか。井伏鱒二の翻訳で親しまれている別れの漢詩の一節だ。
さて、役に立たない情報というか、情報の化石のようなものを書き連ねてきたわたしとしては、最後ぐらいは学生諸君の役に立つものを書いてもいいかという気 がしないでもない。そこで今回は、今後社会に出ていく学生諸君が身につけるべき、社会人に必要な国語力について考えてみたい。扱う素材は本欄の終了を告げ る担当さんのメールだ。というのは、そこには社会人として必要な国語力が顕現しているからだ。とは言っても、全文の引用は憚られるので、冒頭部分を見てみることにしたい。
本欄にはZ会あるいは本欄の読者に貢献するところが甚だ少なかったという自負(?)がある。更新期間こそ長かったものの、自分の好きなことを書き連ねてき ただけの本欄だ。Z会ブログのトップページに並び立つ、有益な情報満載の各ブログとの差は歴然としている。そこのところをおさえた上で分析を進めていこう。
本欄はZ会ブログスタート後間もなく始まっている。無益な情報を発信し続けたわりには、更新期間はそこそこ長い。つまり、それだけ本欄の終了を告げるのは 難しい作業ということになるわけだ。えっと、わたしが扱いにくい古狸だとか気むずかしい奴だとかいうわけじゃないですよ。今後ともいい関係を続けていこうと思うと、関わりが長ければ長いほど、断りを言う際に慎重さが必要になるということです。
さて、担当さんのメールの冒頭は以下のようになっている。
「(前略)先生のご協力により、Z会ブログは開設当初に比較してかなりの盛り上がりとなり、おかげさまで当初の目標を達成することができました。開設当初 は、ブログそのものの維持・発展などありえるのだろうか、と心配ばかりが多い船出ではありましたが、その牽引役を果たしていただき、本当にありがとうござ いました。」
本欄のZ会ブログへの貢献がいかに大きかったかを顕彰・慰労する形で始まっていることが分かるだろう。本欄が牽引役を果たしていなかったことは明らかだと 思うのだけれど、そこはそれ、露骨にそんな風に言わないのが社会人の国語力だ。とは言え、いくら相手を立てるためとは言え、あからさまな嘘はいけない。も しも、本欄のおかげでZ会ブログの今日がある、Z会ブログの今日があるのはひとえに先生のおかげです、などというようなことを書いたとしたら、それは社会 人として失格だろう。「牽引役」という言葉は、そこらを勘案すると、国語力的にすぐれた表現だと言えるだろう。こういう言葉を思いつくためにはやはり普段からの蓄積が必要だ。さすがだ、と言っていい。
告げにくいことを告げる際には、気配りが必要だということがわかると思うが、その気配りにもさまざまなものがある。上に見たように不自然にならない形で直 接的に相手を持ち上げる気配りもあれば、さりげなく自己あるいは自己の側への評価を低めに設定する、という形の気配りもある。
「開設当初は~船出ではありました」が、そのあたりの機微を伝えてくれる。これはあくまでも謙遜の表現だということに注意したい。開設当初からZ会ブログを見てきた身としてよくわかるのだが、そのコンテンツは当初から充実していた。また、一貫して成長を続けてきた。
それを考えると、Z会ブログに関わる担当者の方々が相当の自信・自負を持っていたとしてもおかしくない。また、そうであってほしいと思う。が、こういう場合にそれをあからさまにしてはいけない。あくまでも自らは姿勢を低くしなければならないのである。
以上をまとめるなら、相手が望ましくないと思うかもしれないことを持ちかける際には、相手を持ち上げる一方で自らの側はへりくだることが大切だということだ。また、言葉遣いを丁重なものにしなければならないことは言うまでもない。
それらの気配りは、ちょうど尊敬語、謙譲語、丁寧語の三種類の敬語の働きに対応している。敬語には人間関係を円滑ならしめる働きがあるが、以上のように考 えるならそれも当然だと言えるだろう。適切な時に適切な言い回しで相手との関係を円滑に進めていく、その要諦が担当さんのメールには鮮やかに表れているわけだ。
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