垂渓庵です。
これは2007年9月に公開したもの。たぶん初の旅行ネタじゃないかと思う。ブログにも書いたことがあるけれど、大学・大学院で過ごした時間は濃密なものだった。しんどいこともあったけれど、いろんな意味で面白かったと今にして思う。この旅行には、裵さんの他に、ニシさん、ミズタニ夫妻が参加した。裵さんが手配した宿が連れ込み宿っぽかったりしたのも今では楽しい思い出だ。今日は他に2本公開予定です。
以下本文
セマウル号は、韓国の特急列車です。
20年前、まだ大学院の学生だった頃、大学の先輩たちと韓国に行きました。韓国からの留学生だった裵さんが案内をして下さいました。もともとは指導教官である増田先生の研究室一同で行くはずだったのですが、先生だけご都合でいらっしゃれませんでした。
新幹線、フェリー、セマウル号、在来線、バスその他を乗り継いでの旅行でした。記憶を頼りに行程を記すと、
フェリーで釜山へ→セマウル号でソウルへ→景福宮などソウル市内見学→
ソウル泊→急行でテジョンへ→裵さんの先輩にケリョン山などを案内してもらう→
テジョン泊→バスでプヨへ→テジョンへ戻り、急行でキョンジュへ→
キョンジュ見学→キョンジュ泊→釜山へ→飛行機で日本へ
キョンジュでは二泊したようにも思うのですが、当時のメモがないのではっきりしません。見学場所も忘却の彼方です
行きのセマウル号で乗り合わせたおばさんが印象に残る話をしておられました。
(わたしは辛うじてハングルを読めるかという程度で会話などは全くできません。以下の話は裵さんの通訳して下さった内容です。)
戦前、そのおばさんの家の隣には、とても仲のよかった日本人の女の子がいました。本当に仲がよくていつも一緒に遊んでいました。でも日本の敗戦時のどさくさの中、その女の子の一家は、知らぬ間に日本に引き上げていきました。いえ、無事に引き上げることができたのかどうかも、実ははっきりわかりません。当時幼かったおばさんにはその辺の事情は結局よくわからないままでした。そのまま年月が経っていきました。
そのおばさんがしみじみと言っていました。「今まで誰にも言ったことはないけれども、実は心の底でずっと思っていた。あの子に会いたい。彼女と別れてから四十年間ずっとそう思っていた。今になってはじめて人に言えるようになってきたんだ」と。
わたしが韓国を旅行した1980年代半ば、日韓関係は比較的良好に進んでいたのではなかったでしょうか。おそらくそれまでは、日本の女の子の安否を気遣う素直な気持ちを表に出すことも、憚られるような雰囲気があったのだと思います。
あれから二十年近く経ちました。いま、日本と韓国の関係は必ずしも良好とは言えません。あのおばさんは今ではおばあさんになっておられるはずです。小さな日本人の女の子の話を周りの人に屈託なくしゃべれるようにしてあげること、それは日本と韓国の今を生きるわたしたちの責任である、とわたしは思います。
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