垂渓庵です。
これも2010年8月に公開した。今回読み返してみると、確かに元所長が難しいというのも分かる気がする。最後まで読み通せた人はどれぐらいいるのだろうか。
以下本文
前回の和歌、解釈はできたかな。
ではさっそく読解、いってみようか。
まずもう一度和歌を見ておこう。
思ふ人侍りける女に物のたうびけれど、
つれなかりければ遣はしける
思ふ人思はぬ人の思ふ人思はざらなん思ひ知るべく
詞書によれば、好きな男のいる女にアタックしてつれなくされた男が、さらにその女に贈った歌だった。
では、和歌の解釈。
まず一句めの「思ふ人」。詞書の出だしと結び付けて、「(女が)思ふ人=恋敵」ととりたいところだけれど、そうすると後がうまく続かない。ここは「(あなたのことを)思ふ人=私」と解したい。
考えてみてほしい。この歌を男が女に贈った時には当然こんな詞書なんて存在しない。好きな女に贈るラブレターだ。いきなりその冒頭に恋敵のことを持ちだしたりするはずがないじゃないか。
一句めの「人」が「私」だとしたら、以下はどうなるだろう。女が私のことを好きではないのだから、「思ふ人=私」を「思はぬ人=女」ととれそうだ。で、再び「思ふ人」が出てくるけれど、これは「(女が)思ふ人=恋敵」ととれば、ここまではすんなり解釈できる。
「思ふ人=私」のことを「思はぬ人=女」が「思ふ人=恋敵」
ラブレターにふさわしくなるよう、「人」が指す人物に注意して現代語に置き換えてみよう。そうすると、「(こんなに)好きな私のことを好きになってくれないあなたが好きなあの男」となるはずだ。
次がちょっとややこしい。「思はざらなん」ということばの意味自体は単純。未然形に続く「なん」は「~してほしい」という願望を表す終助詞だ。ということは、「思わないでほしい」となる。
ここでひとつ注意。ここまでの解釈を見てもわかるように、古文では「が」「を」などの助詞がよく省略される。それを適宜補いながら読解していかなければならない。
と言っても、とても難しいことをしなければならないわけじゃない。同じような省略は現代語でも行われている。
この~木なんの木 (某社コマーシャルソング)
ひと~つ人の世生き血をすすり (桃太郎侍決めぜりふ)
※注リンクを張ろうとして驚いた。
七代目菊五郎や高嶋政伸が主演のシリーズもあったんだ。
おれは高橋英樹版しか知らなかった。
パン食べる?
おれ行くよ。
などなど例はすぐに拾える。それぞれ、聞いたり読んだりする側は、「この木(は)何の木?」「ひと~つ人の世(であるいはに)生き血をすすり」「パン(を)食べる?」「おれ(があるいはは)行くよ。」と助詞を補って理解しているわけだ。同じことを古文でも行うだけなのだけれど、どうも難しく構えるのか、古文になるとぐだぐだってことが多い。要は慣れなので、多くの文章に目を通すようにしてほしい。
さて、元の和歌に戻ろう。「(こんなに)好きな私のことを好きになってくれないあなたが好きなあの男」と、「思わないでほしい」の間に入る助詞は何だろう。
ひとつは、「が」。もしもそうならば、「あの男が(あなたのことを)思ったりしなければいいのに」と、女が男に振られることを望んでいることになる。
「を」も入る可能性があるだろう。その場合は、「あなたがあの男のことを思わなくなればいいのに」と、女の心が変化することを期待していることになる。
どちらも可能性としてはありうるはずだ。無理やり一つに限定するのは難しい。というわけで、両方の可能性を頭に入れつつ、さらに先を見てみよう。
結句には「思ひ知るべく」とある。「思ひ知る」は現代でも使うことばだ。「十分に理解する」というような意味だ。「べく」と連用形で終わっているのは、倒置と考えれば処理できる。「思はざらなん」に続くと考えるのだ。「十分理解してもらえるように」→「思はざらなん」となるわけだ。
この歌が恋の歌だということを忘れないようにしよう。何かを「十分理解してほしい」相手は誰だろう。そう、好きな女だ。女に何かを理解してくれと訴えかけているのだ。
で、そこまで考えた上で、「恋敵(が)女のことを『思はざらなん』」なのか、「恋敵(を)女が『思はざらなん』」なのかに戻ってみる。
「恋敵が女のことを思わない」ということは、女が片思いの状態になるってことだ。要は女が失恋してほしいと言っているのだ。そうなった場合、女が「思ひ知る」ことになるのは何だろう。そう、「好きな相手に振り向いてもらえない苦しさ」だ。それは、歌の作者の胸に今現在の時点で宿っている感情でもある。
この場合、歌の作者が女に訴えかけているのは、「相手に振り向いてもらえないのがどれだけ苦しいかあなたにも分かってほしい」ということになるはずだ。自分の苦しい胸の内を相手に漏らしているわけだ。「失恋してほしい」なんて、ちょっと意地が悪い気がしないでもないけれど、それだけ女のことを思っているということだろう。
「恋敵を女が思わない」ようになれば、何が起こるだろう。女の気持ちは他に向かうかも知れない。ひょっとしたら歌の作者のことを好きになるなんてことがないとも限らない。もちろん、そのためには、歌の作者の厚い胸の内を十分理解してもらわないといけない。そう、この場合は、「わたしがあなたを思う気持ちがどれほど深いか理解してほしい」と思っているのだということになるだろう。女が自分を見向きもしない状態であっては、そんなことは起こりえない。だから、女の気持ちが恋敵から離れることを願っているわけだ。
さて、上のどちらが正解だろう。現代の二つの代表的な後撰和歌集の注釈書では、一方が「恋敵が思わない」説で、一方が「恋敵を思わない」説だ。解釈が分かれている。確かにどちらも成立しそうなので迷うところだけれど、あえて一方に決めつける必要はないのではないかという気もする。
現代の我々が見落としている要素があって、当時の人にはすぐにどちらか理解できたということもありうるけれど、当時の人も二つの読みの間で迷ったということも十分に考えられる。ということは、作者がそういう迷いを狙ってこの歌を作った可能性もあるということだ。
自分を振り向いてくれない女が万が一の心変わりをしてくれたらもちろん言うことはない。もしもそうじゃないなら、つれない態度を取った相手にちょっと憎まれ口の一つも口にしたいという気持ちにもなるだろう。この歌はどちらの場合にも対応できる歌ということになるだろう。
女が自分を振り向いてくれるなら言うことはない。この歌は第一の場合の歌だということにすればいい。どうしても脈がない場合、この歌は第二の場合の意味合いを持ってくる。もしも女が「何てこと言うの!」と言ってきたら、「いや、そんなつもりの歌じゃないですよ」とすまして返事をすればいいのだ。
上のように考えることができるなら、この歌の作者はちょっと意地の悪い仕掛けを歌に仕込んでいると言えるだろう。どうもその意地の悪さが命取りって気もするけれど、この恋、結局はどうなったんだろうね。
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