これは2009年9月に公開したもの。これで曲がりなりにも松平定信の「退閑雑記」から西洋の事物がらみの記事を抜粋したことになる。まだ細かいところでは抜けがないわけではないけれど、大きいものはこれで全てのはずだ。全体を眺め回してみると、やはり定信の知的好奇心にはあなどれないものがある。
最初の「木琴」を「器に水を蓄へ、その上に木を載せて打てば響き出るといふ」定信の記述は、どうやら合っている。『アフリカの音の世界』(塚田賢一著 新書館刊)によると、ギニアなど西アフリカのサバンナ地域には「水太鼓(ウオーター・ドラム)」というものがあるらしい(78-79ページ)。水を入れた大きめの容器にそれより少し小さめの容器をうつぶせに浮かべて叩くものだ。
適当な容器がなかったので、風呂で湯船に風呂桶をうつぶせに浮かべて桶の底を軽く叩いてみた。そうすると、思いのほか低音の音が響いた。一度試してみられたい。
以下本文
垂渓庵です。
さあ、いよいよ「定信ったら 蛮書蛮学篇」の最終回です。思えば遠くへ来たもんだ。そもそも、え? 何ですか? 話が違うって? 何の? 「定信ったらシリーズ」は最終回じゃないのかって?
?
誰がそんなことを言いましたか? 前回の記事にそう書いてあるじゃないか、と。 前回ですか。ふむふむ、最初と最後ね。最終回の予告があるというんですね。ええと、ちゃんと記事を読んで下さい。
最初に「この定信ったらシリーズ」、最後に「今回の定信ったらシリーズ」とちゃんと書いているはずですよ。今回のシリーズすなわち蛮書蛮学篇のことです。おかしいですか。わたしの言い方は間違っていますか。「今回のハリー・ポッターは」というような言い方をしませんか。しますよね。それと同じです。わたしは間違っちゃいません。
勘違いをした人はもっと読解力を磨かなくちゃ。いや、磨かなきゃいけないのは国語力だ。仲人口やオレオレ詐欺や霊感商法などなど。世の中には巧妙に仕組まれたトラップはいくらでもあるのです。
今回勘違いをした人は国語力検定を受けましょう。国語力を磨くには国語力検定が最適です。はいそこ、だまされたのなんのとぶうぶう言わない。いいですか、小さいことを気にしていては立派な大人になれませんよ。今回は小ネタ集ですが。
というわけで、では、参ります。
P111
木琴てふものあり。紅毛の連れ来る俗に黒坊といふものの作りて鳴らす器なり。形船のごとき箱にして、チヤンといふ木の拍子木ほどしたるを十八並べたり。その木厚薄あり。みな裏の方を削りてその厚薄によて音を分かつ。槌のごとき物ありてその木を打つに十八の数々みな音違へり。この製をなすに日本にてはさは栗といふ木をもて作れば、音出るともいふ。または器に水を蓄へ、その上に木を載せて打てば響き出るといふ。もとよりこの器は水を蓄へしにはあらざるなり。 (割り注)黒坊はマタロスなり。
P193
ソンカラスはビイドロを二重にして、裏を「ほうしや」をもて燻(ふす)べ、裏と裏とを合はせて作るなり。まことのソンカラスてふものにはなけれども、その用をばなすなり。
P202
猩猩皮といふものは、コーセニールといふ虫、コーキユスボームとてかたち榊のごとき木あり。それに多く生ずるをとりて、その汁もて染むるとぞ。もとより蘇木にていかほども下染めし、その上を右の虫の汁にて染むるなり。天竺のあたりに多くある虫なりとぞ。見ざれば信じがたし。
……………………以上本文引用……………………
松平定信の物に執する態度がよく現れています。玩物趣味とでも言いますか。しかも「見ざれば信じがたし」なんて。気になる記述を見つけては断固として自分で試してみる人だったんんでしょう。
まずは「木琴」について。
黒人が作っていたとありますので、いわゆるシロフォンではなく、西アフリカの民族楽器であるバラフォンのようなものなのかもしれません。通常は鍵の下に一部カットした瓢箪が共鳴器としてつきます。わたしも一つ持っているのですが、うまく構造がわかるように写真が撮れません。こちらをご参照下さい。この写真のものは14鍵です。ネットで見る限り、他に10鍵程度のものから18鍵、20鍵ぐらいのものまであるようです。
「さは栗」は沢栗という栗の一種のようです。こちらに説明があります。
「器に水を蓄へ、その上に木を載せて打てば響き出るといふ」についてはよくわかりません。水に木を浮かべてもあまり楽器としての用を足しそうにはありません。共鳴器に水をはるということなのでしょうか。しかし、水をはった共鳴器が共鳴器としての役を果たすのか。この部分、存疑です。
「黒坊はマタロスなり」本文にも「黒坊」ということばが出てきます。現在では差別語になってしまうかもしれませんが、江戸時代の原史料ということでご理解いただければと思います。マタロスはおそらく「マドロス」です。船乗りですね。黒人が紅毛船の船員として乗り組んでいるのでしょう。
次に「ソンカラス」。
想像がつくかと思いますが、「サングラス」です。ただし、いわゆるサングラスではなく、太陽を見るための色つきガラスを指すようです。こちらあたりが参考になるかと思います。
ところで、「ほうしや」って何でしょうか。ガラスに煤をつけるために燃やすもののようですから、いわゆる「硼砂」ではなさそうです。あれは煤は出ないはず。これもやはり存疑です。
定信、このソンカラスで太陽を見たのでしょうか。「その用をばなすなり」と言い切っていますから多分試したのだろうと思うのですが。
最後が「猩猩皮の染料」です。
「コーセニール」というのはコチニールという色素の元になる虫だと思われます。カイガラムシ科の虫のようです。こちらの記述によれば、天竺(インド)に産するカイガラムシはラックカイガラムシと呼ばれているようです。コーキユスボームというのが何なのかはよくわかりません。少なくともサボテンの名前ではなさそうです。
「猩猩皮」というのは猩猩の皮ではなく、猩猩緋という色名の別表記のようです。想像上の生きものである猩猩の革製品なんて聞いたことありませんしね。あるサイトでは緋色に染めた羅紗のことだと説明されています。
「蘇木」とは蘇芳(すおう)の木のことです。心材を染料として用います。蘇芳色のもとですね。
松平定信という人はいろんな物に興味をひかれるのだなあとつくづく思います。しかも「見ざれば信じがたし」というぐらいですから、徹底したレアレストだったのでしょう。それだからこそ現状の問題点を明確に見定め、改革を断行することもできたのだろうと思います。
彼は一方に偏した物の見方をすることもあまりないようです。これまでとりあげてきた記事を思い返して下さい。あくまでも物にこだわる側面はありますが、彼の知的好奇心の前にはすべての物事が同列にあるかのごとくです。そうであればこそ蛮書や蛮学由来の事物にも分け隔てのない目を向けることができたのでしょう。
彼の多彩な実験・実検遂行の原動力は、紛れもなく彼の知的好奇心──偏頗なかたよりのない開かれた好奇心──です。もちろん、蛮書を訳させ、実験機材を整える経済的余裕が背景にはあるのですが、それだけで十分ではありません。彼と同じ条件をクリアしている人がすべて分け隔てのない知的好奇心を発動してさまざまな実験を行ったわけではないのですから。
そう考えると、蛮書/蛮学由来の知識に対する彼の取り組みは、彼の人間性の一面を鮮やかに示す営為であると言えるのではないかと思えるのです。知情意でいうなら彼はおそらくは知の人なのでしょう。もちろん情や意がないわけじゃないですよ。人間なんですから。知的把握が得意で、まず問題点を前もって冷静に見積もってから行動にうって出る、そんなタイプだったんじゃないかと想像してみるわけです。
以上で「定信ったら 蛮書蛮学編」は終わりです。今後は蛮書や蛮学に限らず、彼の著作から興味深い記事をご紹介していければと思っています。
さあ、いよいよ「定信ったら 蛮書蛮学篇」の最終回です。思えば遠くへ来たもんだ。そもそも、え? 何ですか? 話が違うって? 何の? 「定信ったらシリーズ」は最終回じゃないのかって?
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誰がそんなことを言いましたか? 前回の記事にそう書いてあるじゃないか、と。 前回ですか。ふむふむ、最初と最後ね。最終回の予告があるというんですね。ええと、ちゃんと記事を読んで下さい。
最初に「この定信ったらシリーズ」、最後に「今回の定信ったらシリーズ」とちゃんと書いているはずですよ。今回のシリーズすなわち蛮書蛮学篇のことです。おかしいですか。わたしの言い方は間違っていますか。「今回のハリー・ポッターは」というような言い方をしませんか。しますよね。それと同じです。わたしは間違っちゃいません。
勘違いをした人はもっと読解力を磨かなくちゃ。いや、磨かなきゃいけないのは国語力だ。仲人口やオレオレ詐欺や霊感商法などなど。世の中には巧妙に仕組まれたトラップはいくらでもあるのです。
今回勘違いをした人は国語力検定を受けましょう。国語力を磨くには国語力検定が最適です。はいそこ、だまされたのなんのとぶうぶう言わない。いいですか、小さいことを気にしていては立派な大人になれませんよ。今回は小ネタ集ですが。
というわけで、では、参ります。
P111
木琴てふものあり。紅毛の連れ来る俗に黒坊といふものの作りて鳴らす器なり。形船のごとき箱にして、チヤンといふ木の拍子木ほどしたるを十八並べたり。その木厚薄あり。みな裏の方を削りてその厚薄によて音を分かつ。槌のごとき物ありてその木を打つに十八の数々みな音違へり。この製をなすに日本にてはさは栗といふ木をもて作れば、音出るともいふ。または器に水を蓄へ、その上に木を載せて打てば響き出るといふ。もとよりこの器は水を蓄へしにはあらざるなり。 (割り注)黒坊はマタロスなり。
P193
ソンカラスはビイドロを二重にして、裏を「ほうしや」をもて燻(ふす)べ、裏と裏とを合はせて作るなり。まことのソンカラスてふものにはなけれども、その用をばなすなり。
P202
猩猩皮といふものは、コーセニールといふ虫、コーキユスボームとてかたち榊のごとき木あり。それに多く生ずるをとりて、その汁もて染むるとぞ。もとより蘇木にていかほども下染めし、その上を右の虫の汁にて染むるなり。天竺のあたりに多くある虫なりとぞ。見ざれば信じがたし。
……………………以上本文引用……………………
松平定信の物に執する態度がよく現れています。玩物趣味とでも言いますか。しかも「見ざれば信じがたし」なんて。気になる記述を見つけては断固として自分で試してみる人だったんんでしょう。
まずは「木琴」について。
黒人が作っていたとありますので、いわゆるシロフォンではなく、西アフリカの民族楽器であるバラフォンのようなものなのかもしれません。通常は鍵の下に一部カットした瓢箪が共鳴器としてつきます。わたしも一つ持っているのですが、うまく構造がわかるように写真が撮れません。こちらをご参照下さい。この写真のものは14鍵です。ネットで見る限り、他に10鍵程度のものから18鍵、20鍵ぐらいのものまであるようです。
「さは栗」は沢栗という栗の一種のようです。こちらに説明があります。
「器に水を蓄へ、その上に木を載せて打てば響き出るといふ」についてはよくわかりません。水に木を浮かべてもあまり楽器としての用を足しそうにはありません。共鳴器に水をはるということなのでしょうか。しかし、水をはった共鳴器が共鳴器としての役を果たすのか。この部分、存疑です。
「黒坊はマタロスなり」本文にも「黒坊」ということばが出てきます。現在では差別語になってしまうかもしれませんが、江戸時代の原史料ということでご理解いただければと思います。マタロスはおそらく「マドロス」です。船乗りですね。黒人が紅毛船の船員として乗り組んでいるのでしょう。
次に「ソンカラス」。
想像がつくかと思いますが、「サングラス」です。ただし、いわゆるサングラスではなく、太陽を見るための色つきガラスを指すようです。こちらあたりが参考になるかと思います。
ところで、「ほうしや」って何でしょうか。ガラスに煤をつけるために燃やすもののようですから、いわゆる「硼砂」ではなさそうです。あれは煤は出ないはず。これもやはり存疑です。
定信、このソンカラスで太陽を見たのでしょうか。「その用をばなすなり」と言い切っていますから多分試したのだろうと思うのですが。
最後が「猩猩皮の染料」です。
「コーセニール」というのはコチニールという色素の元になる虫だと思われます。カイガラムシ科の虫のようです。こちらの記述によれば、天竺(インド)に産するカイガラムシはラックカイガラムシと呼ばれているようです。コーキユスボームというのが何なのかはよくわかりません。少なくともサボテンの名前ではなさそうです。
「猩猩皮」というのは猩猩の皮ではなく、猩猩緋という色名の別表記のようです。想像上の生きものである猩猩の革製品なんて聞いたことありませんしね。あるサイトでは緋色に染めた羅紗のことだと説明されています。
「蘇木」とは蘇芳(すおう)の木のことです。心材を染料として用います。蘇芳色のもとですね。
松平定信という人はいろんな物に興味をひかれるのだなあとつくづく思います。しかも「見ざれば信じがたし」というぐらいですから、徹底したレアレストだったのでしょう。それだからこそ現状の問題点を明確に見定め、改革を断行することもできたのだろうと思います。
彼は一方に偏した物の見方をすることもあまりないようです。これまでとりあげてきた記事を思い返して下さい。あくまでも物にこだわる側面はありますが、彼の知的好奇心の前にはすべての物事が同列にあるかのごとくです。そうであればこそ蛮書や蛮学由来の事物にも分け隔てのない目を向けることができたのでしょう。
彼の多彩な実験・実検遂行の原動力は、紛れもなく彼の知的好奇心──偏頗なかたよりのない開かれた好奇心──です。もちろん、蛮書を訳させ、実験機材を整える経済的余裕が背景にはあるのですが、それだけで十分ではありません。彼と同じ条件をクリアしている人がすべて分け隔てのない知的好奇心を発動してさまざまな実験を行ったわけではないのですから。
そう考えると、蛮書/蛮学由来の知識に対する彼の取り組みは、彼の人間性の一面を鮮やかに示す営為であると言えるのではないかと思えるのです。知情意でいうなら彼はおそらくは知の人なのでしょう。もちろん情や意がないわけじゃないですよ。人間なんですから。知的把握が得意で、まず問題点を前もって冷静に見積もってから行動にうって出る、そんなタイプだったんじゃないかと想像してみるわけです。
以上で「定信ったら 蛮書蛮学編」は終わりです。今後は蛮書や蛮学に限らず、彼の著作から興味深い記事をご紹介していければと思っています。
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