2012年3月18日日曜日

旧暦2/26 再掲 ヴォネガットと斎藤緑雨

垂渓庵です。

これは2007年8月に公開したもの。ヴォネガットと斎藤緑雨。ちょっと意外な取り合わせだと思う。本を読んでいてこういう偶然の一致というか奇妙な暗合というかを見つけると、とても嬉しくなる。 これ以外にもいくつか見つけたことがあると思うのだけれど、メモをとる習慣がないものだから、忘れてしまった。ちょっと残念だ。

以下本文

先日ヴォネガットという作家についてご紹介しました。1960年代以降、主にSFの分野で活動を続け、一時期はアメリカの大学生を中心にカルト的な人気を誇った作家で、最近では爆笑問題の太田光さんが彼のファンだということが話題になっていて…、というような話を書いたように思います。

今回はそのヴォネガットの作品の一節と奇妙に符合する斎藤緑雨の寸言を紹介したいと思います。



ヴォネガットはいくつかの作品で特定の語句を頻用しています。たとえば、「チャンピオンたちの朝食」では「さよなら、ブルー・マンデー」を、「スラップスティック」では「ハイホー」をというように、短いフレーズをしばしば繰り返し使用するのです。

これらのフレーズは、その時々のヴォネガットの気分──多かれ少なかれ悲しみの色がつきまとうのですが──を込められることばだということなのでしょう。

「スローターハウス5」での頻出語は、「そういうものだ」です。この作品では、ヴォネガットが第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜であったときに経験した、ドレスデンの無差別爆撃が取り上げられています。作者はそこで悲惨な死、無意味な死、徹底的な破壊を目にしたようです。それは彼の一生に影を落とすことになりました。

「そういうものだ」とは、主人公のビリー・ピルグリムが時間旅行者として何度も自分の人生を生きねばならないことへの諦念を表すとともに、ドレスデン空爆という悲惨な出来事に向き合わねばならなかった作者の絶望と諦念を表していると考えられます。むかしSFマガジンに載っていたインタビューからうかがえる彼の誠実な人柄からすると、自己の経験を真正面から受け止めてしまったのだろうなと想像されます。

さて、そんな現代のアメリカの作家に配するに、斎藤緑雨とは何とミスマッチなとお思いになる方もおられることでしょう。彼は小説家でもあり、森鴎外らと小説時評などを手がける論客でもあったと言えば、およそいつ頃の作家か見当がつくでしょう。そう、緑雨は明治時代の作家なのです。

十年近く前に彼の全集が完結したと思いますが、文庫などで手軽に読むのは難しい作家の一人です。小説では辛うじて「油地獄」「かくれんぼ」が岩波文庫のラインナップに入っています。が、注や十分な解題もついていません。

「油地獄」などは異様な情念のありようがそれなりに面白い作品なのですが、語彙などの面で、気軽に人に勧められそうもありません。第一、復刊フェアでたまに若干部数が増刷されるだけなので、いつでも手に入るというものでもないのです。あと、彼のものした寸言集成が、岩波文庫(「あられ酒」)と冨山房(「緑雨警語」)から出ています。冨山房版には中野三敏さんの注とコメントがついていますから、緑雨の寸言、箴言、警句を見てみようと思われる方にはおすすめです。

さて、彼の寸言に次のようなものがあります。

○どうせ世の中は其様(そん)なものだ。この一語は、なける者をも慰むべく、怒れる者をも慰むべし。斯くして人口は年々増加すとも、減少することなし、めでたからずや。(冨山房版「緑雨警語」より)

どうでしょう。ヴォネガットの「そういうものだ」へのみごとな注釈になっていると思いませんか? ヴォネガットとは性質は違いますが、斎藤緑雨も彼なりの鬱屈の持ち主でした。それが関係しているのかどうかはわかりませんが、期せずして洋の東西で発想の一致が見られるのは興味深い限りです。わたしはこんな偶然の一致を見つけると何か楽しくなるのです。

ついでですから、緑雨の寸言、警語を「緑雨警語」からいくつか紹介しておきましょう。文語ですがあえて注はつけません。夏休みの自由研究として口語訳をしてみて下さい(笑)

○褒するに辞は限り有れども、貶するに限りなし。例せば利口といへるただ一つのほめ言葉に対し、馬鹿、阿房、間抜け、抜け作、とんま、とんちきなど、悪口は数ある如し。世とて人とて、到底そしられで果つまじきことは、これにて知るべし。

○相見ば恋は止むべきか、相逢はば恋は止むべきか、相語らば恋は止むべきか。切に求めて止むことなきものは恋なり。

○まこと世に忘らるるを得ば、こよなき幸ひなり。すくなくとも債権者の前には幸ひなり。名声の失墜、さばかり恐ろしきことかは。失墜するに足るべき名声のありけるを思へば、われもその一人として数へらるるにつけて、ひとり密かに慰むる所なくばあらず。願はくは長く今の地に墜ちて、再び揚がらざることを。

○無邪気は愛すべく、無責任は憎むべし。されども無邪気は、無責任の一種なり。

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