垂渓庵です。
2007年12月に公開したもの。それにしても、どうしてこの本を読もうと思ったのだろうか。ムラタ先生が紹介しておられたという気もするのだけれど、どうもはっきりしない。宮崎市定、倉田卓次、狐という可能性もある。どうだったのかな。
垂渓庵です。
二十世紀の中国を代表する歴史家に顧頡剛という人がいます。中国版ウイキペディアには、こんな風な説明がなされています。
国文学関係の人には、史記をはじめとする中国の正史の点校本でおなじみなのではないでしょうか。一般の読書好きの方には、「ある歴史家の生い立ち」(岩波文庫)という自伝で知られているのではないかと思います。
この自伝は、著者の学問や研究に向かう真摯な姿勢や、自由な発想の重要性などを教えてくれます。時代や取り組む分野の違いを超えて、著者の生き方は、わたしたちに自分の人生をいかに生きるべきかを考えさせてくれます。
もちろん、彼は一個の天才と言っていいと思いますから、わたしたちが彼の真似をしようと思っても無理な部分はあります。彼の真似をするのではなく、彼の生き方から自分の生き方を振り返るだけでも、十分有益だと思います。
詳しくは「ある歴史家の生い立ち」そのものを読んでいただくとして、ここでは彼の天才ぶりをうかがえる挿話をひとつだけご紹介しましょう。彼の天才ぶりを彷彿とさせる記述はいくつもありますが、中でもこの挿話には目を見張ります。何歳の時のエピソードなのか考えながら読んでみて下さい。
私は『論語』を読んでいた時、『孟子』もすでに買って傍においておいて、おりにふれて見ていた。私は『論語』 の中でたくさんの古人の名まえを知ってはいたが、それらは極めて断片的であって、なかなか連絡がつかなかった。『孟子』を読むようになって、その道統を述べている話のなかから、古人の前後の区別がついた。一つの歴史的体系が出来てみると、おもしろくてたまらず、そのことについて明瞭な叙述をしてみたくなった。前に祖父のしてくれたお話のなかに、盤古氏が斧で天地を開闢した物語や、老婆と犬とから人類が生まれる物語があったことをおぼえていた。この時になって、これらの物語と書物に見える尭・舜・禹の記載とを一つなぎにしはじめた。その当座、幾日も家のものより早く起き、朝日のさし始めた窓べで、開闢から始まって、滕文公篇(『孟子』のなかの一篇)の「孔子歿す。子夏・子張・子游は、有若の聖人に似たるにより、孔子に事へしままに彼に事へんと欲す。曾子に強ふ。曾子きかず」の一段にいたるまでの、一篇の古代史を書いた記憶がある。(岩波文庫「有る歴史家の生い立ち」16ページ)
彼の記述によると、この時書いた古代史は五ページばかりのものだったそうです。残念ながら失われてしまったそうですが。
さて、彼はこの時何歳だったのでしょうか。驚くなかれ、筆者は「その当時、私は七歳(旧式の計算では八歳になる)であった」(同書17ページ)と書いています。なんともはや吃驚の沙汰ではありませんか。
彼はいわゆる読書人──学者などの知識階級と考えて下さい──の家に生まれました。それゆえ幼少のころから古典籍を読むという教育を受けていました。ですから、その年齢で『論語』などに触れていること自体は驚くべきことではありません。しかし、そのようにして得た知識と自己の経験とを結び付けて、自分なりに歴史を組み立てていったとは、なんとも驚嘆すべき知的早熟ぶりです。
このような事例を見ると、幼児からの英才教育が重要だ、というような結論に飛びついてしまいたくなりますが、同じような教育を受けていた読書人の子弟は数多くいたのにも関わらず、顧頡剛は一人しか出てこなかったことを忘れてはならないと思います。幼児教育の可否や効果は彼の場合とは切り離して考えるべきでしょう。
それはともかく、彼は中国の歴史学に大きな足跡を残した碩学です。その片鱗がこのように幼いときから現れていたわけです。栴檀は双葉より芳しと言いますが、その生きた見本といえるのではないでしょうか。
二十世紀の中国を代表する歴史家に顧頡剛という人がいます。中国版ウイキペディアには、こんな風な説明がなされています。
国文学関係の人には、史記をはじめとする中国の正史の点校本でおなじみなのではないでしょうか。一般の読書好きの方には、「ある歴史家の生い立ち」(岩波文庫)という自伝で知られているのではないかと思います。
この自伝は、著者の学問や研究に向かう真摯な姿勢や、自由な発想の重要性などを教えてくれます。時代や取り組む分野の違いを超えて、著者の生き方は、わたしたちに自分の人生をいかに生きるべきかを考えさせてくれます。
もちろん、彼は一個の天才と言っていいと思いますから、わたしたちが彼の真似をしようと思っても無理な部分はあります。彼の真似をするのではなく、彼の生き方から自分の生き方を振り返るだけでも、十分有益だと思います。
詳しくは「ある歴史家の生い立ち」そのものを読んでいただくとして、ここでは彼の天才ぶりをうかがえる挿話をひとつだけご紹介しましょう。彼の天才ぶりを彷彿とさせる記述はいくつもありますが、中でもこの挿話には目を見張ります。何歳の時のエピソードなのか考えながら読んでみて下さい。
私は『論語』を読んでいた時、『孟子』もすでに買って傍においておいて、おりにふれて見ていた。私は『論語』 の中でたくさんの古人の名まえを知ってはいたが、それらは極めて断片的であって、なかなか連絡がつかなかった。『孟子』を読むようになって、その道統を述べている話のなかから、古人の前後の区別がついた。一つの歴史的体系が出来てみると、おもしろくてたまらず、そのことについて明瞭な叙述をしてみたくなった。前に祖父のしてくれたお話のなかに、盤古氏が斧で天地を開闢した物語や、老婆と犬とから人類が生まれる物語があったことをおぼえていた。この時になって、これらの物語と書物に見える尭・舜・禹の記載とを一つなぎにしはじめた。その当座、幾日も家のものより早く起き、朝日のさし始めた窓べで、開闢から始まって、滕文公篇(『孟子』のなかの一篇)の「孔子歿す。子夏・子張・子游は、有若の聖人に似たるにより、孔子に事へしままに彼に事へんと欲す。曾子に強ふ。曾子きかず」の一段にいたるまでの、一篇の古代史を書いた記憶がある。(岩波文庫「有る歴史家の生い立ち」16ページ)
彼の記述によると、この時書いた古代史は五ページばかりのものだったそうです。残念ながら失われてしまったそうですが。
さて、彼はこの時何歳だったのでしょうか。驚くなかれ、筆者は「その当時、私は七歳(旧式の計算では八歳になる)であった」(同書17ページ)と書いています。なんともはや吃驚の沙汰ではありませんか。
彼はいわゆる読書人──学者などの知識階級と考えて下さい──の家に生まれました。それゆえ幼少のころから古典籍を読むという教育を受けていました。ですから、その年齢で『論語』などに触れていること自体は驚くべきことではありません。しかし、そのようにして得た知識と自己の経験とを結び付けて、自分なりに歴史を組み立てていったとは、なんとも驚嘆すべき知的早熟ぶりです。
このような事例を見ると、幼児からの英才教育が重要だ、というような結論に飛びついてしまいたくなりますが、同じような教育を受けていた読書人の子弟は数多くいたのにも関わらず、顧頡剛は一人しか出てこなかったことを忘れてはならないと思います。幼児教育の可否や効果は彼の場合とは切り離して考えるべきでしょう。
それはともかく、彼は中国の歴史学に大きな足跡を残した碩学です。その片鱗がこのように幼いときから現れていたわけです。栴檀は双葉より芳しと言いますが、その生きた見本といえるのではないでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿